odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「白痴 上」(新潮文庫)第2編1-5 ロゴージンの前から許嫁が消え、ロゴージンはムイシュキンを襲う。

2024/12/02 フョードル・ドストエフスキー「白痴 上」(新潮文庫)第1編12-16 ナスターシャの部屋。集まった人々が事件を持ち込み、この世を浄化する炎が舞い上がる。 1868年の続き

 

 ムイシュキンはぺテルブルクの街を歩き回る。ラスコーリニコフも歩き回ったが、彼と異なるのは、ムイシュキンは目的をもって誰かに会おうとすること。歩きながら考えるのは同じだが、ラスコーリニコフが人類やロシア民族の大きな類のことだけど、ムイシュキンは具体的な誰か。考える対象が三人称なのか二人称なのかは大きな違い。ムイシュキンは観念で物事を考えようとしないし、考えを体系化しようとしない。
 でも二人称を考えるムイシュキンは二人称の当人と交通してしまい、関係を変化させてしまう。それはたいていの場合、ムイシュキン自身の不幸となって帰ってくる。歩き回るムイシュキンは地獄に足を踏み込んでいくかのよう。

1 ・・・ 第1部の主要キャラのその後。ムイシュキンはモスクワに遺産相続の手続きにいって半年も帰らない。ナスターシャとロゴージンもモスクワにいったが、結婚式の話がでるとナスターシャは逃げてしまった。ガブリーラ(27歳)は熱病とうつ病を発症。焼け残った金75000ルーブルをナスターシャに返すようコーリャ(15歳)に託す。ガブリーラの妹ワーリャは高利貸しに嫁に行き、ニーナ夫人とガブリーラは転地療養する。コーリャは何と債務監獄にいれられ、出獄したあとはエパンチン将軍家に入り浸り三人娘と知り合いになる。次女のアデライーダはシチャー公爵と結婚して家を出ていった。
(19世紀の小説はキャラの行く末までとても律義に説明する。ディケンズやコリンズらのイギリス文学もそうだったなあ。こうして主要キャラ、ムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージン、ガブリーラがいなくなった。どうやって小説を続けるのだろう。)

2 ・・・ 久しぶりにムイシュキンがぺテルブルクに帰ってきた。最初に行ったのはレーベジェフの部屋。そこには饒舌な青年がいて、訳もない話を延々としている。それはレーベジェフがムイシュキンの来訪を喜んでいないので。実際、ムイシュキンはロゴージンとの結婚を放り出して行方不明になったナスターシャを探しているのだった。エパンチン将軍やトーツキイやガブリーラの家族らがみなパーヴロフスクの別荘にいっているので、ムイシュキンはレーベジェフが持っている離れの家を借りることにする。

3 ・・・ そのあと、ロゴージンの家に向かう。ロゴージンはいたが、ナスターシャはいなかった。式の日取りを自分で決めながらいなくなってしまった。ロゴージンは悲惨な同棲生活を語る。ムイシュキンは二人が結婚すると不幸になると予言したのに、と返事をする。ロゴージンはナスターシャが惚れているのはムイシュキンだというと、公爵はびっくりする。
(ロゴージンはつねに三角関係にある嫉妬の人。金の欲望をもっているガブリーラにはそれを上回る金を見せて勝ったが、欲望から解放されているムイシュキンには勝てない。そこで愛人が自分を見捨てないように哀願し、奴隷になろうとする。でもナスターシャは好色なだけ情欲だけのロゴージンを愛さないどころか軽蔑している。なので二人の同棲生活は嫉妬の地獄と化している。嫉妬と自尊心があるロゴージンは憔悴して陰気な顔つきになり、暗い家(ムイシュキンの印象)になっている。ムイシュキンの訪問によって、彼の嫉妬はムイシュキンに向かう。でも欲望充足でしか勝負できないロゴージンは、無欲のムイシュキンに敗北することがあらかじめわかっている。彼の感情を昇華する出口はない。ロゴージンの愛と嫉妬はドミトリー・カラマーゾフのそれなのだな。)
(ロゴージンの居間にあるテーブルにナイフが置いてある。とても長い伏線。このナイフは逡巡する「マクベス」の前に置かれたナイフと同じ役割を果たす。)

4 ・・・ ロゴージンの家にはホルバインを模写した十字架から降ろされるキリスト画がかざってある。ロゴージンはロシアには神を信じない人が増え、自分も信仰を失いかけていると嘆く。そしてムイシュキンと十字架のネックレスを交換する。ロゴージンは近くの家にいき、認知症らしい老婆を自分の母だと紹介した。別れ際にナスターシャをムイシュキンに譲るといい、ナイフで刺したりしないと冗談めかし、ムイシュキンを抱擁する。
(ロゴージンは旧教派=分離派。そこから見ると、カソリック化するロシア正教会の信徒は「神を信じない人」になるのだ。ムイシュキンはキリスト教の本質は赤ちゃんを見た時の喜びだという。赤ちゃんの比喩はロゴージンの母の姿に重なるのであって、無垢な人・清浄な人は無条件で愛されるべきというメッセージになっている。理想化を押し付ける物言いなので、俺にはピンとこないなあ。)

5 ・・・ ロゴージンと別れてからムイシュキンは癲癇の発作が起こる予兆を感じている(個々からのレポートはどこでも引用されているので割愛。発作は「一瞬が至高の調和」「時を超越する」「祈りの気持ちに似た法悦」で、「この一瞬のためなら全生涯を投げ出してもいい」)。ムイシュキンはナスターシャが発狂の徴候を持っているのを思い出す。雨の中、宿泊しているホテルのロビーで、彼を追いかけている一つの目を見つける。それを明るみにだすとナイフを手にしたロゴージンだった。彼の右手が振り下ろされる直前、ムイシュキンは癲癇発作を起こして昏倒してしまった。
(ロゴージンは前の章で神に祈りをささげてから人殺しをするという話をしていた。それは彼の無意識だったのか、この話をしゃべったから行為に及んだのかわからないが、関係があったよう。ロゴージンは逃げ出してしまう。殺人の前に相手と関係を持とうというのは、「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ伝にもあったなあ。)
(嫉妬の人ロゴージンは相手が執着しているもの以上のものを与えて圧倒しようとする。ガブリーラには金を、ナスターシャには愛を。ムイシュキンは執着するものがないので、命を消すナイフを持ち出すしかない。)
(ロビーにたまたまコーリャが来て介抱の指図をした。レーベジェフの家に運び込まれ、かれらはパーヴロフスクの別荘に移動する。)

 

 黒澤明監督の映画「白痴」は以上までが第1部。ロゴージンの襲撃は雨の日のホテルのロビーではなく、雪の積もった日本家屋の玄関口だった。どちらのイメージも秀逸。
 指摘が後先になるが、ムイシュキンはギロチンの話をし、ロゴージンは目に付くところにナイフを起き、イポリートはピストルを隠し持っている。男たちは殺人の道具に執着して、自分や他人を殺すのに利用する。ムイシュキンはのちに中国の花瓶を割る。ムイシュキンはこの花瓶をみていつか自分で割ってしまうという予想をもっていたのだが、そのとおりになった。象徴的な殺人とみてもよいかも。ほかにも殺人の象徴を持つ男はいそう。イヴォルギン将軍やレーベジェフのアルコールとか。ガブリーラは目前で自分のものになるはずの10万ルーブルの札束を燃やされた。これでガブリーラも精神的に抹殺されて、以後一気に生彩を欠き、四人の主人公の前に現れなくなる。

 

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2024/11/28 フョードル・ドストエフスキー「白痴 上」(新潮文庫)第2編6-12 金儲けの欲望にまみれた地上の人間は金に執着しない天使人間の前で醜態をさらす。 1868年に続く