odd_hatchの読書ノート

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モーリス・ルブラン「オルヌカン城の謎」(創元推理文庫)

新妻の母親の肖像画を前にして、ポール・デルローズの血は凍った。画中の女性こそ、16年前に彼の父親を刺し殺した犯人ではないか! これは運命か、それとも宿命か……。妻が残していった日記を手がかりに、怪盗紳士アルセーヌ・リュパンの助力を得て、義弟とともに砲弾炸裂する戦場を駆けて父親の死を糾明する異色作。待望の本邦初訳
オルヌカン城の謎 - モーリス・ルブラン/井上勇 訳|東京創元社

 1915年の作。第1次大戦がはじまったばかりで、独仏の戦線は膠着していた。当初戦いは半年で完了すると思われていたが、近代戦においては膠着する。それを理解している人はいなかった。いつまでたっても解決しない戦い、銃後の人々は動員され戦時計画経済統制が発動され、インフレと物資の不足に悩む。いつ徴集されるかわからず、いつ戦場に成るかわからない状況。そこにおいてルブランは、この愛国作家は立つ。対独戦に勝利するためになにをなしうるか。というような(想像上なのだが)状況で書かれたスパイアクション小説。地続きの国境線のあるところで敵対する国家だから、相手に対して辛らつであり、皮肉であり、憎悪をもってドイツとドイツ人が書かれている。まあ、こういう反敵国プロパガンダ小説や映画やフィクションはたくさんつくられたことだろう。自分がとりあえず所属する国でもまあ事情は変わらない。そういう憎悪や辛らつさが気になってあまり楽しめなかった。
 かつて、トーマス・マン、ロマン・ロラン、ニーチェなんかを読んだときにも、なぜ独仏はこうも相手を気にし、差異を述べ立てることに熱中するのかと不審に思ったが、ここでもその主題は繰り返される(渡辺一夫「僕の手帖」所収の「海の沈黙について」を読むと、この小説でもナチスによるパリ占領中のフランス市民とドイツ軍人の関係がそのように書かれていることを知った。「海の沈黙」はかつて読んだことがあるのに忘れていた)。そういう憎愛の関係は抜きにして、政治史を考えるとドイツはフランスの歴史をほぼ100年遅れでなぞっていたのだなあ、と思いついた。フランス革命が第1次大戦で、ナポレオンがヒトラーに、なんていうような。
 あとは、第1次大戦を舞台にしたフィクションがこの後たくさん書かれて、作られたわけで、戦後の意識がどんな風に変わったのかを気にすることになる。そのような対象のリストとして、エリヒ・レマルク「西部戦線異状なし」(新潮文庫)アンリ・バルビュス「クラルテ」(岩波文庫)ヘミングウェイ武器よさらば」。それらの映画化作品。
 この小説のフレームは、懐かしい復讐譚。父母を惨殺された息子が長じて結婚した相手が、父母を殺した当人とうりふたつ。恐ろしい疑惑にとらわれて謎の解明に乗り出そうとしたところ、独仏戦が始まり、召集して軍功を上げるうち、父母を殺された城館(それは結婚相手の相続したもの)を捜査することになり、そこに独逸の数十年がかりのスパイ戦の中心であることがわかり、彼は戦争の帰趨と20年前の事件を解決する役割を担う。彼は推理力はたりないが、行動力旺盛で事件の渦中に身を投じることによって、謎を解いていく。それが国家をすくうものにもなるのだから、すばらしいヒーローではないか。そういう人物を要求する時代に生まれたキャラクター。時代が変われば、スポーツ根性もののヒーローにもふさわしい。21世紀の混沌とした時代では不遇な存在。そして、こういう物語もつくれなくなった。
 登場人物にアルセーヌ・リュパンがクレジットされている。しかし彼の登場はほんの一瞬で、しかも現実なのか夢なのか定かではない。なるほど、アルセーヌ・リュパンは国家や共同体のモラルに抵触する犯罪者であり、義賊なのだ。彼が優先するのは、国家や共同体の間あるいはそれらが交錯する狭間における倫理。だからリュパンは国家の正義や民族の憎愛を超越する。そういう人物が反独プロパガンダ小説に登場することはできない、関わってはならない。この小説におけるリュパンは主人公の行動の行き先を告げる弁者、神の宣託を告げる人。そういう彼が現実とも夢ともわからないところで登場するのは彼の役割にふさわしい。