odd_hatchの読書ノート

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モーリス・ルブラン「怪盗紳士リュパン」(創元推理文庫)

名探偵シャーロック・ホームズとならぶ推理小説史上の巨人、アルセーヌ・リュパンは世界中の老若男女から親しまれている不滅の人間像である。つかまらない神出鬼没の怪盗、城館やサロンしか荒さぬ謎の男、変装の名人、ダンディでエスプリにあふれた怪盗紳士リュパン。本書はリュパン・シリーズの処女作であり、8短編を収録した決定版
怪盗紳士リュパン - モーリス・ルブラン/石川湧 訳|東京創元社

 中島河太郎の解説によるとリュパンの初登場は1905年。雑誌にいくつか連載されたあとに、「怪盗紳士リュパン」が1907年に出版された。なるほどリュパンの登場はほぼ1世紀前のことであり、それは日露戦争と同時期だったのか。日露戦争当時の古い録音(たとえば「軍艦行進曲」など)を聞くと、この時間の差はとても大きいものにおもえるが、リュパンのこの短編集はそれほど古さを感じない。
アルセーヌ・リュパンの逮捕 ・・・ 大西洋横断の客船にアルセーヌ・リュパンが変装して乗り込んでいるという電報が届いた。おりしも船内では宝石、現金の盗難が相次いでいる。リュパンの嫌疑をうけた青年は捜査を開始したものの返り討ちにあってしまった。この騒ぎをみている「私」はネリー嬢と恋仲になったが、老練なガニマール警部はリュパンを見逃さなかった。リュパン初登場。
獄中のアルセーヌ・リュパン ・・・ カオリン男爵の邸宅には古い絵画のコレクションがあった。そこにリュパンから盗難予告の手紙が届く。あわてた男爵は当地に休暇中のガニマール警部に支援を要請する。リュパンは投獄されているからとしぶる警部を無理やり邸宅にこさせると、その夜、部下を眠らされた上に絵画は残らず盗まれた。ガニマールは投獄中のリュパンに面会し、とんでもない策略を暴露される。
アルセーヌ・リュパンの脱走 ・・・ 脱獄を予告していたリュパンをガニマールが監視するが、その兆候はない。一度、護送の馬車が故障したときリュパンはそこらをうろついていたが、戻ってきた。奇妙なことにそれから3ヶ月間、リュパンは独房で壁を向いて静かにしていた。そして公判が始まり、リュパンを尋問したガニマール警部は彼はリュパンではないと断じたのだった。公判は打ち切り、リュパン捜索が始まる。ある日、ガニマールはリュパンと公園で会った。驚愕の真相。フットレル「13号独房の問題」の次か、その次あたりにおいてよい脱獄テーマの短編。黒岩涙香江戸川乱歩流の人面変更術が披露される。
 ところで、リュパンはジュウドウのウデヒシギを披露する。ホームズはバリツ(これには、ジュウジツの誤解説、柔術を習った英国人の創始した護身術説、スペイン語の「ヴァーリ・トゥード」のなまり説の3つがある)を習っていたのと好対照。いずれにしろ、前田光世はこの時代に西洋を回りながら異種格闘技戦を戦い、柔術を普及していたのだった(神山典士「ライオンの夢 コンデ・コマ前田光世」(小学館))。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンのランカシャーレスリングの成立はいつだったかなあ。レスリング、柔術、プロレスがクロスしていた神話の時代だ。
奇怪な旅行者 ・・・ 汽車のコンパートメントに「わたし」とどこかの高貴な夫人、そして奇怪な男が乗り込んだ。しばらくして、男は眠り込んだ「わたし」を拘束して、夫人の宝石を盗み、トンネルの中で逃亡した。それを警察と一緒においかける「わたし」。なぜそれほど熱心になのかねえ。
女王の首飾り ・・・ 今から6年前(すなわち1900年)に、ある伯爵のもとから由緒ある首飾りが盗まれた。誰も入ることのできない部屋の棚においてあったのにもかかわらず。その館にいたのは伯爵夫妻と、妻の友人の未亡人にその年若い息子。未亡人はもちろんただちに追い出されたが、毎年匿名のだれかから多額の現金を受け取った。6年後、未亡人は死亡する。伯爵はパーティの席でこの話をすると、見知らぬ男が事件を推理する。モーパッサンにありそうな人情話にまとまった。
ハートの7 ・・・ 潜航艇の開発にしのぎを削っているころ(司馬遼太郎坂の上の雲」にあるように当時は潜航艇の開発時期)、フランスの独創的な設計図が盗まれる。しかし最後の一枚の図面が隠されていたために敵国の開発は頓挫した。そのかわりに産業スパイが跋扈しているころ。「私」はとある家で一夜をすごすとき、何者かの脅迫を受ける(ここは伝統的な恐怖小説そのもの)。それを記事にしたころ、得体の知れない男が家に来て、独りきりになった後自殺した。トランプの「ハートの4(それは潜航艇開発のプロジェクト名でもある)」が残された。図面と男の死のなぞをとくために、「私」と警察のダスプリーは協力する。「私」がリュパンの自伝作家になった理由が明かされる。
彷徨する死霊 ・・・ 「父が危ない」という手紙の反古を見つけたリュパンはそれを書いた娘を訪れる。おりしも娘は首輪を壊された犬に襲われているところだった。その夜、娘の食事に毒が仕込まれている。「この館には死霊が闊歩している」と洞察したリュパンは医師と一緒に見張ることにした。しかし、逆襲にあいリュパンは銃弾を胸に受ける。娘を殺そうとするおそるべき真犯人とは? アニメ「カリオストロの城」におけるルパンとクラリスの出会いを思わせる冒頭シーン。最後に口に出た「赤いスカーフ」事件は「赤い絹の肩掛け」事件(「リュパンの告白」所収)のことかしら。
遅かりしシャーロック・ホームズ ・・・ チベルメニル城は革命以前からある由緒ある城。湖水の中に一本道を通ってだけいける塔には古文書によると秘密の地下道があるという。しかし、この百年誰も発見できず、奇妙な謎の文句だけが残っていた。さてここにも古美術品があり、リュパンはそれを盗むことにしたのだが、城には「アルセーヌ・リュパンの逮捕」で見初めた若い娘がいてリュパンは盗みを諦める。城主はホームズに来援を頼む。彼は来るなり、古文書と謎の文句の秘密を解き、地下道を見つけてしまった。それは宿命のライバル、リュパンとホームズの最初の出会いであった(この邂逅はのちの池上遼一「男組」における流と神竜のすれ違いに引用される)。

 初登場からしばらくの間は「わたし」というキャラクターが登場し、リュパンの友人となって彼の活躍を記録するという役回りを演じていた。次作の「リュパン対ホームズ」までの短い趣向。そのあとは、誰とも知れぬ名無しの作者が三人称でリュパンの活躍を記録することになる。この最初期の趣向ではこういう書き手の性格を使ったトリックを使うこともあった。それはクリスティとかなんとかが発明する10年以上も前にあったのだった。ここは強調しておいていいことだな(まあ、ポーの短編に先行例があるのだが)。
 あと、最初期の短編では、ドイルの作り出した近代探偵小説の仕組みはほとんど現れない。依頼人の動作や服装から職業、住居、その他を類推するという超絶推理はないし、実現不可能な謎もほとんど設定されない。代わりにあるのは19世紀の恐怖小説の発端であり、超常現象とも思いかねない異常な雰囲気である。あるいは、百年以上前からある古びた城や文書のたぐいと、その館に住む一族の奇妙な因縁、謎めいた美人の存在である。ほとんどゴシック・ロマンスの仕掛けが充満しており、それはフランス南部の霊的史跡や遺跡の存在と関係つけられる。こういうところか古めかしいし、一方で妙に読者の琴線に触れるのでもあった。そこに中世騎士と同じく高貴な夫人に忠誠とプラトニックな愛を誓う英雄がいる。まあ、こういうのがリュパンのいる世界のであった。
 それからリュパンの若々しいこと。失敗もするし、女には振られるし、敵の罠に簡単にひっかかるしと、あまりいいところはない。それでも、落ち込むのは数行ですぐさま行動に移ることのできるリュパンは颯爽としているよ。盗む先は貴族やブルジョアのみで殺人は決して起こさず貧民の見方であること、困った女性には騎士然としてプラトニックラブを貫くこと、そしてこの行動力がリュパンの魅力。若いころのリュパンはたしかに英雄でアイドルであった。個人的には、出版の逆順に読んだこともあって、リュパンが魅力的には思えなかった。この印象はたぶんもう二度とリュパン物を読まないから変わることはないだろう。