odd_hatchの読書ノート

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スーザン・ソンタグ「エイズとその隠喩」(みすず書房) 治癒できない病とされていた時代に、エイズに込められた隠喩と神話は人を殺す。

 初版は1989年。日本版は1990年。今から思い返すと「エイズ」の危険性、破滅性が最も喧伝されている時期であった。毎月、エイズ感染者・発症者の推移が発表され、他の国との比較がなされてきた。この本にはアメリカでのエイズによる差別例(退職強制とか配置転換とか)があったが、この国ではさほど大きくなかったのは、発症者が少ないことにつきるかな。その後薬害エイズ被害者が現れ、別の問題にはなった(やはりこの国でもエイズによる差別があった、など)。一応注意喚起すると、この国にはエイズ差別は存在する。

1.隠喩(メタファー)はある事物を別の言葉で言い換えること。近代の医学思想は軍事的隠喩を用いた。病気は外部からの侵入者で、それを直すことは「防衛」である。それが「がんに対する戦い」「ドラッグに対する戦い」という表現で、市民の動員が図られる。同時に病気がデーモン化する(敵対する他者である)発想から患者に罪を着せる方向になる。患者は無垢とみなされることもあるが、無垢は罪につながる。患者には「スティグマ」を押し付ける。
(隠喩と神話は人を殺す。化学療法のような効果的な手段を闇雲に怖いものに見せ、ダイエットや心理療法のごときなんの役にも立たない治療法を信心させたりする。薦めるのは、医師に本当のことをいってもらいなさい、事態に通じた積極的な患者になっていい治療を受ける、いい治療が現にあるのだから。絶対の治療法はないが、すべての症例の半分以上が今ある治療法で治せる。)

2.エイズが発見された1980年代、エイズはがんとは異なるが同じ発想のもとにある軍事的比喩で語られた。多くの場合、当時のSF映画、エイリアンの侵略のイメージであった。同時に、その侵食が恒久的かつ潜伏期を持つことから梅毒のイメージも追加された。梅毒には末期の譫妄状態を芸術的創造性の発露と見るロマンティックな意味づけもあったが、エイズにはそれはない。

3.エイズにかかると恥ずかしさと罪の意識が生まれる。エイズにかかることは「危険グループ」の一員であることを証明するものとされる。したがってHIV保有すること=エイズの感染者(実際はHIVの抗体を持っているに過ぎず発症するかどうかとは別)とみなし、彼らを隔離しようとする。すなわち社会的な差別の理由になる。

4.病気のもっとも恐ろしいとされるのは、人間性を失うこと。西洋では人間性は顔、表情でもって判断された。肉体の変化、暴力のあと、変形などがあっても、顔が平常であればそれは美しく、清浄化されている。

5.病気は集団にとっての災難、共同体に対する審判。人々から恐れられる病気は、致命的であることと、体を異質な何かに変えてしまう病気(らい病であり梅毒、がん)。また疫病は悪であり、悪は伝染するという隠喩もあった。その前提になるのがヨーロッパが外来(たいていアジア)から襲来した疫病に感染し、受難を経験したという認識(逆に西洋人が他の大陸に疫病をもたらしたことには、西洋人は無自覚・無批判である)。

6.権威主義的なイデオロギーは不安(異国人によるのっとり)を煽ることによって得をする。そのとき異国人は病気の運び手とされる。エイズはその煽動に利用されている。同時に権威主義的なイデオロギーを信奉する人はエイズを通して1960年代のカウンターカルチャーを攻撃する(とくにセックスに関して)。ここで話題は転じ、エイズの隠喩は潜伏性と感染性を主とする。がんのような社会的な隠喩をもつことはおきていないようだが、その代わりにウィルスが隠喩の担い手になった。とくにコンピューターの世界で。

7.資本主義のイデオロギーは消費を拡大せよ、自己の欲望に制限はないというものであたが、エイズは性の抑制を要求するものであった。それは1970年代のイデオロギー(解放、消費など。著者はモダニティという)に反する考えである。1980年代のいくつかの自己抑制の運動(エクササイズとか)に連動する動きである、そうだ。

8.第三世界のエピデミックは「自然的なダメージ」として軽視されるが、エイズは西洋(とくに知的な白人男性)に蔓延したために「黙示的」なイメージを持つことになった。そこでは「世界的」「人類的」な破滅イメージが繰り返し強調される。それを口実とする抑圧がメッセージにこめられる。その意味ではエイズの隠喩は逆ユートピア(抑圧、強制、監視)の前触れであるかもしれない。重要なことは、まずエイズに限らず病気全般の軍事的比喩をなくすことである(もちろん「医学的」イメージも外科的解決を要求するゆえに危険ではあるのだ)。


 21世紀になって、エボラ出血熱のかわりにインフルエンザのほうが問題になる。東南アジアやアメリカ経由でインフルエンザがこの国に感染するとき、ここに叙述されたいくつかの社会的な反応(病気は異国人によって運ばれる、彼らの入国は制限されるべき、感染者は隔離されるべき、すなわち異国人や感染者は罰を受け、この領土から排斥するべき)が現れた。つづいては放射線汚染で同じ社会的な反応が現れた。今度は国内の人々の間で起きているのが大問題。病気のイメージが、個人主義(著者によると自己利益主義であるとの由)を名目にしてナショナリズム権威主義に結びつくということなのだな。というところが、この本の内容のアクチュアリティであるのだろう。
 ただ、アメリカの事例がもとにあるので、5とか7、8の章はよくわからないところがある。また、論理の進め方が独特で、というか話題がいきなり転換されるところが多くて、内容をつかむのが難しかった。上のようなサマリを書き、さらに論点を再構成しないと、著者の主張の全体は判明しないではないかしら。その代わり、思考のスピードとか著者の焦燥感などは失せて、この文体を読む面白さは減ってしまうかな。痛し痒し。
 あと書かれた時代からすでにエイズに関する陰謀論が生まれていた。すなわちどこかの国の軍事研究所が生物兵器として開発。それが漏れたか、野外実験をして、それが蔓延したというおとぎ話。残念なことにHIV中央アフリカ起源であるとされたときに、アフリカ諸国はこのような陰謀論を使って反論したことがあった。いまでも某国が某製薬会社に変わるヴァリアントの陰謀論は消えない。ばかげた話なので信用しないように。

    

スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房)