その町では「痴漢」とよばれる連続強姦殺人魔が暗躍していた。手口は独居独身女性のアパートに入って(荷物や手紙を届けに来たと告げる)、犯罪を犯すというもの。そのため市民はチェーンキーをつけたり、ドアを開ける前に決めておいたノックの回数で合図する(それがタイトルの意味)などして自衛するようになった。1959年初出だが、事件の背景はエド・ゲインよりもペーター・キュルテンのほうだな(類似の事件は別にもっとあっただろうけど)。本書では「痴漢」と訳されているが、原文では「サイコ」。きしくも同年初出のブロック「サイコ」と同じ命名であるのだが、おそらくこの時代に人口に膾炙したのだろう。同じような都市型異常心理殺人犯の事件を扱ったクイーン「九尾の猫」1949年ではこの言葉は使われていないので、これらの本が発表された間に生まれた言葉なのだろう。
さて、この町で酒のセールスマンをしているレイは切羽詰まっていた。給料日前というのに、競馬の掛け屋から借金の返済を迫られたのだ。その額480ドル。今日からすると大した額には思えないが、当時の平均月収よりも多い金額。妻がかけている生命保険を解約して金を借りようとしたが断られ、町の飲み友から寸借したがすぐに手放すことになり、飲み屋の親分に掛け屋の小遣い稼ぎをしていることがばれてのされ、情婦のところから安い貴金属を盗んだもののすぐに見つかり私立探偵に法外な賠償金を要求され、にっちもさっちもいかなくなる。この追い詰められ方が迫真的。たった6時間の間に(章の頭には時刻が書かれている。アイリッシュ「暁の死線」みたいな趣向)、どんどん事態がひどくなっていく。こういうテーマはアイリッシュにもあるのだが(「恐怖」「死者との結婚」その他)、ブラウンの小説ではアイリッシュの登場人物のように感情移入することはできない。ブラウンは登場人物を突き放して、彼の心理を描くときにもダメなところを抉り出すからね。読者も、俺にはこいつのような目にあうかもしれないけど、ここまで恥知らずじゃねえよな、とつきはなすのだ。まあ、セイフティネットがないとか個人主義社会で自己責任で生きるのはつらいねえとは思うけど。
このほかに、レイの妻ルースの物語(レニーと喧嘩した後、バイト先のレストランの店長と話をする。店長は大学で社会学を専攻したというインテリ。連続強姦殺人事件に興味をもってプロファイリングを行う)とか、レイの情婦ドリーの物語(男を手玉にとって金を巻き上げる運命の女)とか、自分が犯罪事件の犯人であると思い込む知的障碍者ベニーの話(警察に自首しては怒られる)とかがある。これらは同じ小さな町の出来事であっても興味をひかないのでうっとうしいと思うのだが、追い詰められたレニーが「痴漢」を見つけて接触するところから、いきなり物語がつながりだして、加速する。頻繁なカットバック、関係者のクローズアップ、巧みなモンタージュで、緊張が走る。のこり10ページになってから、複数回のどんでん返し。前半はDQNなサラリーマンの転落を退屈しながら読んでいたけど、4分の3を過ぎてからは怒涛の展開。
1960年の翻訳だが、珍しく大きめの文字で200ページ強。エンターテイメント小説はこのくらいにコンパクトなほうがいいな。2時間ちょっとで全部読めて、あとくされなくページを閉じることができる。翻訳を介したからそう感じるのかもしれないが、紋切り型の言葉はめったになく、はっと気づかされる小粋な文章で、風俗を的確に描写。そういう文学としてブラウンの作品は見事。余韻や不安にとらわれることもなく、快楽/時間/価格のコストパフォーマンスで評価すると、とても優れている。最近のエンターテイメント小説が総じてページ数が多いのは困った傾向だ。スカスカの文章と水膨れした物語を読まされるから。ブラウンをみならってくださいよ。
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