odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「ギリシャ棺の謎」(創元推理文庫)

 以前感想を書いたのを訳と版を変えて再読。
 ギリシャ人の美術商が病気で亡くなり、葬儀を終えると遺言状が紛失していた。式場や屋敷から出て行った不審者はいない。エラリーの推理で墓を掘り、棺を開けるとそこには見知らぬ死体が一緒に入っていた。遺言状は消えている。
 死体は有名な前科者で、美術商と経営する美術館館長にレオナルド・ダ・ヴィンチの絵をひそかに売ろうとしていたらしい。かつてロンドンの博物館が所蔵していたのだが、5年前に盗難にあっていた。美術館長は死体の前科者の兄弟であるが、縁を切ったので数十年もあっていなかった。この美術館長も自宅で射殺される(ここまでで300ページかかるというなんとものんびりした展開)。容疑はレオナルドの絵を購入した富豪に集まる。偏屈な爺さんもエラリーの推理の前には抗うこともできず、捕縛されるのである。しかし……。
 1932年の奇跡の年を飾る一遍。とにかく「意外な犯人」にこだわり、その一点だけの剛球勝負。不可解な事件現場でもないし、意外なトリックもないし、不可解な挙動の容疑者もいない中、犯人を隠す手腕はたいしたもの。犯人を知ったうえで読んだのだが、とりわけ前半に解決のための手掛かりがさりげなく、しかし大胆に記述されていた。この技術はみごと。なので、この大長編は2回読んだほうがよい。あと、クイーンには珍しく犯人にコンゲームを仕掛けているので、そこも楽しみ。
 さて、前回からおよそ10年たって、訳と版を変えての読み直しで、気づいたところをいくつか。
・19世紀後半のアメリカでは、鉄道・鉄鋼・銀行などのビジネスで成功し莫大な資産を獲得した大富豪が輩出した。彼らは従業員の待遇や労働環境の改善にはさほど興味はなかったようだが、一方でチャリティの精神を持っていて、病院や学校、美術館、オペラハウスなどに惜しみなく投資した(ヘレン・ケラーの通った学校がそうやってできたもの)。このミステリの登場人物は捜査陣を除いて、この階級に所属するもの。19世紀の成り上がりが、自らの無知や品のなさを取り繕うために、ハイカルチャーに憧れ、西洋のエリートやブルジョアの真似をしていたのがよくわかる。
・莫大な資産を元に彼らがほしがったのはヨーロッパの伝統や歴史だった。というわけで、レオナルド・ダ・ヴィンチの失われた(と思われる)絵画をほしがる。クイーンの作品ではこの作のほか、「チャイナ橙の謎」で古いイギリス領の切手を、「レーン最後の事件」シェイクスピアの古文書を、という具合に西洋の古いものをほしがる人がいた。ハメット「マルタの鷹」でも似たような欲望が現れていたね。自分の知っている範囲では、アメリカのこの種の欲望、西洋の伝統と歴史を入手する行為は第2次大戦後になると小説の主題でなくなる。戦争で破壊されつくした西洋、一方で世界の工場と食糧生産国になり、民主主義の<帝国>となったアメリカ。価値はアメリカが自ら作り出すものに代わったのかもしれない。
・事件を解決する手掛かりになるのは、パーコレーター、ダイヤル式電話にタイプライター。21世紀の今ではありふれたものか、もう使わなくなった古いテクノロジーのものだが、1932年にはどれも新しい機器で、中産階級にようやく普及してきたものだった。電気式のパーコレーターの歴史はよくわからない。1920年代にたいていの白物家電が販売されていたというから、これもあったのだろう。当時の電話は人手による接続が一般的で、若い女性が大量に雇用されたのが電話交換局。そのような時代に、ダイヤル式は最新テクノロジーにほかならない(吉見俊哉「『声』の資本主義」講談社選書が当時の電話事情に詳しかったと記憶)。タイプライターは1900年代初頭の発明であるが、普及したのは20年代から。ここではアンダーウッド式とレミングトン式に二つの型式があり、それぞれでキーや活字が異なるとされる。当時の最新テクノロジーを使った手掛かりはさぞかし当時の読者を驚かしたと思う(ヴァン=ダインやクリスティの有名作品でもそうだったと思う)。さて21世紀の読者は以上のガジェットをどう思うのか。枯れたテクノロジーになりかわっていて実物を見たことも触れたこともない読者は、エラリーの発見する手掛かりの意味を理解できるのだろうか。1990年代あたまにポケベルやワードプロセッサーを使ったトリックや、スペックの違いによる錯誤などが盛んに書かれた。いまでは、当時の作品はまず見向きもされない。さて、クイーン作のは生き延びているのか、そうだとするとどこが違うのか。

    


 吉見俊哉「『声』の資本主義」は版元が変わっていました。