「音楽の基礎」というタイトルで、内容は西洋古典音楽のスコアを読めるようになるための基礎知識の紹介。初版の1971年はニクソンショックやオイルショックの前で、高度経済成長の最後の年。このころにオーディオとピアノのブームがあって、多くの人がこぞって、中級から高級のオーディオやピアノを買ったのだよね。グループサウンドの影響でギターやドラムも売れていた(フォークのブームはこの後)。あいにくオーディアやピアノを楽しむにはこの国の住居は適していなくて、数年後には音楽を騒音とストレスに感じる人から反対されるようになってしまった。
ともあれ、西洋古典音楽を聴くときにスコアを置いておくと、音楽の聴き方も変わる(細部に発見を見つけるとか、構造を楽しむとか)ので、そのための基本を教える。対象は以下の通り。
1 音楽の素材(静寂/ 音)
2 音楽の原則(記譜法/ 音名 ほか)
3 音楽の形成(リズム/ 旋律 ほか)
4 音楽の構成(音程/ 和声 ほか)
本を読むだけだと、理解は難しいなあ。西洋古典音楽を長年聞いている自分には、いまだに調性・和声の理論が理解できない。たぶんピアノやギターなんかで音を出しながら確認すればいいのだろう。そういう機会のなかった自分には「音楽の基礎」も高い壁がありました。
ここには「音楽とは何か」について一切触れていない。それはアプリオリにみんながわかっているから説明不要にしている。これが学者の啓蒙書だと、形而上学・美学・民俗学の知識と西洋の歴史を絡めてるる説明するはず。そうした音楽の定義や説明をすると、どうしても境界領域に線引きすることになり、定義や説明に疑義が生じる。ケージの偶然性の音楽、即興演奏、ノイズの扱いに困るし、この国の伝統音楽は西洋音楽や美学からすると音楽にならなくなってしまう。そういう混乱を避けるために、一切扱わないというのは一つの見識。
自分は「音楽の広場」や「N響アワー」などの音楽啓蒙番組の司会者として、著者のことを知っている。そのときのダンディな姿と明晰な説明を思い出す。それからすると、この本は堅苦しい。いろいろな事例や実践のトリビアが書かれていても、教科書的な味気無さが生じてしまう。新書という限られたスペースからすると、こういう網羅的・羅列的な記述になるのは仕方がない。にしても、なにか工夫できなかったかな。
そう思うと、音楽家にはしゃべりはうまいが文章だと味気なくなる一群の人がいたなあ。著者がそうだし、黛敏郎、山本直純、立川清登、朝比奈隆という人たち。彼らの多くは自分の番組を持っていて、洒脱な司会ぶりがたのしかった。この人たちも自作の本を持っているが、それほど面白いものではない。一方、しゃべりには魅力を感じないが文章を書かせると抜群という一群の人もいる。武満徹、岩城宏之、中村紘子、青柳いずみこという人たち。両方達者な柴田南雄という人もいた。まあ、共通点は見つからないから、何かを主張するわけにはいかない。
西洋古典音楽が生きるのに必要だったり、生活を豊かにする必須の教養と思われていたから、このような本が企画されたのだろう。今は必ずしも必須の教養とは思われていないし、西洋古典音楽に親しむ人が多いわけではない。とすると、「音楽の基礎」は別のジャンルの音楽で書かれてもいいだろう。大友良英著「音楽の基礎(ノイズまたは劇伴音楽編)」、綾戸智恵×小野リサ著「音楽の基礎(ボーカル編)」、かきふらい著「音楽の基礎(軽音楽編)」、なんて言うのはどうか。どうも自分の企画だとキャリアの古い人ばかりになる。もっといきのよい若い人のほうがよい。
2014年4月に以上の感想を書いたら、大友良英さんの本が同年12月にでた。「学校で教えてくれない音楽」 (岩波新書)。 びっくりしたなあ、もう。(自分は未読です)