odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「七瀬ふたたび」(新潮文庫)

2017/11/10 筒井康隆「家族八景」(新潮文庫) 1972年

 火田七瀬を主人公にする小説の第2作。家政婦は気疲れし、露見する可能性が高いので、すでにやめている。夕方、列車にのっているとき、七瀬は思念を感じる。はじめての体験。自分と同じ超能力者がいることを知る。列車事故の予知、キャバクラのダイヤ盗難事件、フェリーでの殺人目撃などを通して、七瀬は周囲に超能力者を集める。彼らは自分の力を制御できず、七瀬の指導や指示がないとうまく働かせないのだった。集まったのは、子供に黒人(七瀬という女性を含めて、当時の現在のこの国のマイノリティたち)。一緒にいると目立つので、七瀬は小銭をためて北海道に家を買う。いっしょに暮らす夢を持てそうな予感のあるとき、強い殺意を感じる。それは七瀬の周囲にいる女性を殺し、七瀬の誘いに乗らなかった超能力者を殺す。ついに、やつらは七瀬のアジトを突き止める。七瀬は逃れられるのか・・・。
 1972-74年に書かれた連作短編(単行本化は1975年)。いろいろなことを夢想しながら読んだので、以下ではとりとめないまま感想を書いてみる。
・超能力者の孤独と連帯、それに対する普通人の敵意。こういうモチーフは1970年代にたくさんあったなあと懐かしい。もっとも人工に膾炙にしているのは「機動戦士ガンダム」1979年だろうが、書かれたころは石森章太郎のマンガ(「リュウの道」「番長惑星」「サイボーグ009」)があったし、原作をした「仮面ライダー」「キカイダー」などもそうだし、永井豪のマンガ(「デビルマン」)とか、半村良とか平井和正とか小松左京なども超能力モノのSFとか、もういろいろ思いつく。それに、テレビではオカルトや超能力者も流行りだしていた(ユリ・ゲラーやスプーン曲げ少年などはちょっとあと)。もちろんステープルドン「オッド・ジョン」などの先行作品もあったなあとか、後半のストーリーはキング「ファイアスターター」1980年そっくりだなあとか、オタクな知識が記憶の底から巻き上がってくる。ああ、楽しい。
・気になるのは、七瀬にしろ予知能力を持つ岩淵にしろ、時間跳躍ができる漁(すなどり)にしろ、超能力を隠すこと。むしろ隠さねばならないこと。力を持つことが普通人に知られると、彼らは激しい反発と敵意を示す。自分にできないことをするからというより、本音と建前の使い分けを無効にして、本音を暴露されることが恐ろしいからのよう。強い同調圧力の働くこの国の<システム>で、自分がひとり除け者、異邦人であることが知られるのが困るわけだ。その困惑や恐怖が<システム>に向かうのではなく、もうひとりの除け者、異邦人の排除に向かうのがこの国の在り方の問題。
・それが強調されるのは、超能力を持っているのが、女性・子供・黒人という社会的弱者であること。彼らはその変えられない属性でもってすでに差別される側にあるのだが、そこに超能力というスティグマが貼り付けられることによって、さらに差別を排除の力が強まる。彼らを排除しようとする連中が、(中年)男性であり、警官であり、ゾンビ―であるとされるのだが、彼らの属性がそのまま差別と排除する力の源泉を示している。そういうところは、この国の差別の在り方をみごとに摘出している。読者は超能力をもたないが、いつ「超能力を持っている連中」とレッテルを貼られて、七瀬らと同じように差別と排除の力に会うとも限らない。いや、この国のマイノリティはすでに差別と排除の力にあっている。その点でこの小説の在り方はアクチュアリティがある。古びていない(さすがに風俗は古いがね)。
・この小説は火田七瀬の視点による三人称小説。実質は一人称で書かれている。しかもテレパス能力をもっていて、他人の思考・意識を読むことができるので、周辺人物の主観や内話も書かれる。ということは、この小説で七瀬は「神」の視点をもっているのだ、ということは「エディプスの恋人」のエントリーで書いたので繰り返さない。それに、今度の読み直しで使った全集17の解説には、七瀬シリーズが「虚人たち」の先行作であると指摘しているが、同じことは上のエントリーで書いたので繰り返さない(ただ、この小説で七瀬ら超能力者は「超能力者の役割と使命」を何度も考えている。このモチーフが「虚人たち」につながる端緒になっていることは記録しておこう)。
 可憐で美しく、異能の娘に萌えるだけだと、この小説の読みとしてはつまらない。

  


2017/10/24 筒井康隆「エディプスの恋人」(新潮文庫) 1977年