2022/09/20 堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像 上」(集英社文庫) 1968年の続き
第2部はモラトリアムの時期。主に内面のことを指して言うのであるが、同時に語り手「若者」の境遇にある。なんとなれば、1936年に入学したのち、第2部が終わる1941年冬になっていまだ「若者」は学生であり、どうも卒業論文の制作も始めていないようだから。とりあえず法学部にはいったものの、およそ二年間授業にでることはなく、読書するか友人を訪ねるか浅草や新宿などの繁華街をうろつくか。そうなった一つの理由はアパートの隣室にいる朝鮮の貴族の息子とつるんで、遊びまわり、ときに彼の女をあてがわれて同棲もしていたようなのだ。東京という田舎の学生に嫌悪と拒絶しか感じず、時世の悪化につき流されるようにときに浅草のレビュー一座に加わって北海道を興行でまわったりもする。そうなるのは、満州国皇帝来日に合わせて予防拘禁されたり、公安・特高が不意打ちのように脅しに来たり、禁じられているレーニンの洋書を隠し持ったりして、世間や世の中への反発を持っているから。
「東京の街々では、喫茶店や映画館で、また直接の街頭でさえ、官憲によって“学生狩り”というものが行われていた。ぶらぶらしている学生を、遠慮会釈なくひつとらえて一晩か二晩留置場に放り込み、脅かしておいて放り出す。そういう無法が法の名において行われていた。(P228)」
「国内の一切は、いわぱへっびり腰で軍の意を迎えに行く体制になりつつあるもののようであった。それが『新体制』というものであるらしかった。」(P295)
というのは職業野球団に就職する従兄の家で、野球用語を英語から翻訳する作業を手伝ったときの感想であるが、戦時体制や治安維持体制、翼賛体制は上からの押し付けではなく、下からの忖度と上へのお伺いで定着していく事情を明らかにしたものに他ならない。そのうえ、戦争はすでに10年も続いていて、どこにいっても召集令状がきる。同級生にはすでに動員されたものがいる。ときに戦死報告がくる。結核で死ぬ若者もいるし、獄中の拷問で死んだ若者もいる。表向き生きている人は穏やかにしているが、だれもが涙を流している。日米開戦が近づくにつれてとても30歳までは生きていないだろうという諦念とも怒りともつかない微妙な感じがピリピリと肌を刺している。
「人々の、自分自分に独自な一生というものは、もうこれでおわったのだ、という心持がしていた。これからは、各自の自分自分が本当の自分になるためには、反死同盟もさることながら、死者の眼で見て行くより法はないのだ、と決断した。(P300)」
青春でこういう気分になるのは、この時代にしかなかった。10歳も年上ならば今東光「悪太郎」(角川文庫)か金子光晴「どくろ杯」(中公文庫)か伊藤整「若い詩人の肖像」(新潮文庫)のようになり、10歳も若ければ小田実や開高健のようであったろう。戦後文学をになった人たちは死と詩を同時に考えていなければならなかった。(著者の10歳上であっても、大岡昇平のように30歳を過ぎて召集され戦地に赴くものもいたのであるが)
「若者」は大学予科を終えるころになってから、法学部から文学部仏文科に転入する(当時は移籍試験なしだったとのこと)。詩と海外文学が「若者」の気持ちを自堕落への防波堤になる。英語の素養があり、ヴェルレーヌの仏英対訳本であたりをつけていたとはいえ、数か月の勉強でアランのエッセイを読めるようになるというのはこの人の教養と文化の素養の深さに目を見張るしかない(そしてそのような深さをもっている人は大学にも市井にもたくさんいた)。
新宿通いを続けるころから他大学の詩文サークルと知り合い、慶応大学仏文科のサークルにはいり、過去の関係で築地新劇場周辺の左翼文芸グループとも知り合いになる。電話もテレビもない時代、彼らは歩いて人に会いに行きしゃべる。アニメも漫画もないので文化的関心は詩と小説と演劇に向かう。大学進学率が10%もない時代、たいていの学生は英語を読み書きできた。そういう時代の学生生活。ときに若者は一日十数時間の読書をして過ごす。戦争の死と警察の監視抑圧にあるなかで、若者に詩が生まれる。
若者はレーニンを読んだり、共産党のビラを受け取ったりするのであるが、共産主義活動には参加しなかった。その心持ちはこの小説ではよくわからない。思想に感銘する前に、日本のコミュニストの退廃と自己愛に辟易していたようだ(その点は、武田泰淳「快楽」の主人公・柳に近いか)。
「若者は、この国でのマルクス主義が本来の反戦運動と社会苗命への道を徹底して塞がれてしまい、その本来の任務からそれて来て、主義としても未成熟な部分である文学や芸術の側へ大幅にのめり込まねばならなくっているのだな、と感じ、その主義の将来のためにも、不幸な予感にみたされた。事は、この面では、むしろ内側から絶望的であった。(P286-7)」
この小説には実在する文学者、研究者が別名で登場する。第2部では、永井荷風、宇野重吉、井伏鱒二、堀辰雄、山内義雄(「チボー家の人々」の訳者)、太田咲太郎(マルセル・アルラン「アンタレス」 耕進社1935年の訳者)などの年上の人々に、同世代の白井浩司、斎藤磯雄、芥川比呂志らがいて、清水の次郎長や岩倉具視の孫も同級生にいる次第となる。新宿の詩文サークルグループは第3部の感想で紹介。初読では誰が誰やら見当もつかなかったが、21世紀には文中の手がかりをネット検索することですぐに実名が判明する。なんとも便利な、プライバシーのない社会になったものか。
(彼らの戦後の仕事を知っていると、学生時代の青春をどう過ごしていたかに想像力が働く。)
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2022/09/16 堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像 下」(集英社文庫)-1 1968年に続く