odd_hatchの読書ノート

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堀田善衛「歴史」(新潮文庫)-2

2022/10/20 堀田善衛「歴史」(新潮文庫)-1 1953年の続き

 さらに第2部は続く。
第二部 一九四六年中国(承前)
潮行的 ・・・ コメ袋は引き取られ、竜田は左林と口論になり、萩原にホテルの部屋をしばらく明け渡す。

その前夜 一九四六年十一月末日午後七時 ・・・ 陶一亭、劉福昌、洪希生らがコメ袋を運ぶ。重すぎる中味に不安になる。同時に彼らの半生が回想される(毛沢東朱徳などと同じような貧困、無学の若者が地主・財閥・日本軍に痛めつけられて、階級意識を持つまでの内容。日本は敗戦でアメリカが接収したが、中国は国民党・共産党アメリカ軍・軍閥などの多数の権力が入り乱れていて、統一の統治組織がしばらくなかった。インフレ、物資不足の激しさは日本の比ではない。)

同日午後八時 ・・・ 左林ほか、財閥、密輸業者、軍閥残党とアメリカ企業社員との会合。国民党統一後の中国でどうやって儲けるか。上海ほかの工場を日本にどうやって移転するか。竜田と康沢は通訳として出席。

同日午後九時 ・・・ コメ袋の到着を待つ洪希生と周雪章。大衆からも体制・権力からも遊離したインテリの活動はどうあるべきか。文学をやろうかという若者に運動家はいう。

「孤独を強調し、人を分裂させ解体させるような文学は、いちばん悪い文学です」(P240)

同日午後九時半 ・・・ 打ち合わせを終えた左林は竜田をバーに誘う。日本の元特務機関員は転向者であった、共産党を壊滅した後の若者(大正生まれ)はマルクス主義者のデカダンスを受け継いだなど。竜田の考えは

「日本にとって革命とは、明治以来の中国との関係のあり方が変ること、これが日本革命の窮極の証明ですよ。(P250)」

 21世紀になっても竜田らの「奴ら(日本人)はあれ(戦争)を繰り返す」「日本はまた(中国に)やってくる」という認識が通用してしまう。

同日午後十一時 ・・・ コメ袋を守る史量才の回想。昆明での学生時代、民主化教授が国民党軍特務に暗殺される。史量才は学生特務を見つけ出して刺殺。その後、武装解除された日本軍に紛れて上海に来た。

十二月一日午前零時 ・・・ 第2部に登場した人たちがこの時刻に考え行動していることを書く。露天商500人が逮捕され、抗議が起きる。そこから暴動の予感。(同じ言葉を発することで視点がいきなり別の人に変わる。サルトル(?)の手法が使われている。

第三部 ・・・ 翌日午前。暴動ではなく、国民党政府の弾圧とゴロツキによる襲撃。路上で見せしめの死刑が行われ、極秘裏に逮捕される。登場人物たちの何人かは逮捕され、何人かは現場に向かい、何人かは上海を脱出しようと考える。

 第4部は「急」。
第四部 ・・・ 流氓(りゅうぼう)の民も市民も路に出て、身動きもならない。日本軍の弾薬保管所とおぼしき所で爆発音。市内で銃声。音がするたびに人は流れ流され、押され押していく。皆が走り回るが、全体像は全くつかめず、緊張した空気を共有するだけ。竜田も路上にあり、ホテルのボーイ(少年)といっしょに右往左往する。しかし、財閥、軍閥、特務、アメリカ人らはこの騒ぎを隔絶されたホテルにこもり、脱出の機会をうかがっている。左林のところに、萩原亮子(あきこ)が来て、銃弾を発する。

 

 小説はふつうあるような大団円を迎えない。上海で起きた暴動は、登場人物たちの関係をぶった切り、それぞれの思惑を超えた事態になって、どこに向かうともわからない。とはいえ国民党の軍隊の力はまだ強く、暴動は鎮圧されることが予感される。そしてまた陰謀と密輸と横流しのマフィア資本主義に戻るだろう。そういう行く末が予想されて、なにかラセンのような同じ状況を繰り返すように思われる。とはいえ、読者は1949年の建国を知っているので、小説では背景にわずかに見える共産党軍が上海にいずれ押し寄せ、マフィアの混沌を一掃するに違いない。そういう小状況においては混とんとする歴史も、大きな視点と長期の時間を持ち出せば、一定の方向に動いていくのが観察されるであろう。
 というのも、上海に象徴される都市やアジアは複数の歴史がぶつかり、せめぎあい、どこかの流れに集まっていくという歴史をみることができるからだ。日本の都市では小さな点程度の異国の歴史がまず見えない。なので、複数の歴史のせめぎあいという認識は生まれない。ここ上海ではどの民族や集団も巨大な歴史をもっていて、せめぎあいは実体として現れる。民族、階層、組織や集団としてせめぎあいが起きている。
 そういうせめぎあいをする集団やグループが象徴的な存在として小説に現れる。ここでも彼らは民族や階層の歴史に加えて、個人の歴史ももっている。多くの人物は若い時に出奔していて、生き方の大転換を経験している。特に日本人には「転向」が起きている。中国の人々でも、個人の歴史は苦く厳しい記憶を持っている。彼らは貧困や差別から反権力・反体制であることを選んでいるが、さっそく官憲や軍隊、警察の察知するところとなり、暴力や逮捕や拷問を経験することになる。そこからテロルへの誘惑にあらがえないこともあり、深刻な内的議論を重ねなければならない。
 そのように知的で誠実であろうとしても、彼らの行く末を自身で決定することはできない。小説の中でも彼らの行く末は明らかにされていない。たとえば竜田に預けたコメ袋の中身はわからない。討論会のグループが1946/12/1の暴動でどうなかったかはわからない。萩原に撃たれた左林の容態は不明。上海を脱出しようとした異国の人たちはどうなったのか。とりあえず竜田は日本にもどったようだ(12/1の路上の処刑を報告する会話が収録されている)が、いつどうやっては不明。そういう点では読者に親切ではないのだが、初出の1953年であれば1949年の中華人民共和国の建国は印象に残っているだろうから、だいたいの予想はついただろう。そこから
 残念なことに「奴ら(日本人)はあれ(戦争)を繰り返す」「日本はまた(中国に)やってくる」の予言はあたることになる。この認識は同じ都市を先に訪れた横光利一には得られなかったものだ。横光の「上海」と堀田の「歴史」を読む比べた時、前者の皮相さが明らかになる。おそらく横光は中国の人々(日常接する人から高給取りや流氓(りゅうぼう)まで)を異人とみなし、ツールとしたのだ。堀田の小説の語り手である竜田は中国の人々の支援がないと生きていけず、彼らを同等の存在であるとみなす。その違い。竜田からすると、日本人のほうが異人であり、奇妙な存在であると認識しているかのよう(そこは大岡昌平「俘虜記」の語り手と同じ)。だから、軍の暴力や特務機関の異様さなどをしっかりと見いだせるのだ。
 はなはだとりとめのない感想になった。十分に読み切れなかった自分の側の問題。
 読後しばらくしてからは、国民党やアメリカ企業、あるいは上海の富豪たちよりも、流氓(りゅうぼう)と一体化するようにして抗日や独立運動をする貧しい虐げられた人々の報が記憶に残る。竜田から必ずしも親しいとは言えず、本心を話し合ったこともなく、日本人からは遠い存在である彼ら。そこにある思想(十分な勉強をしていないのでかなり粗削り)の深さはたとえばアンドレ・マルロー「人間の条件」(新潮文庫)での約20年前の南京の若者に重なる。時代と場所を超えて、思想が共鳴しあうような人間の運動は「歴史」というしかなさそうだ。