odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「脱走と追跡のサンバ 」(角川文庫)

 この小説はサマリーをつくりずらい。およそ「現実的」なストーリーはないに等しく、登場する人物がおよそ「現実的」ではないから。それでいて、人物の行動様式や風景は「現実的」に思えるくらいに近しい。読んでいる間、小説との距離の取り方が難しい。でも、やってみようかGo.
 「おれ」が目覚める。世界に対する猛烈な違和感をもっている。ここはニセモノの世界であり、「おれ」は勝手にこの世界に放り込まれた。本来であればあの世界にいるのが当然なのであり、この世界にある「おれ」はこの世界にいるべきではない。というわけで、「おれ」はあの世界に脱出しようとする。その試みが全集版で170ページも続くのであるが、その行程が何とも異様。ガールフレンドとボートにのり、どうやら水没しているような都市の運河をうろうろするうちに他人の茶の間にはいり、途中を端折って(おっとガールフレンドが誘拐されたエピソードを忘れてはならない)、職業適性所で「乱調文学大辞典 」のような答案を書いてSF作家になり、大量の本と雑誌を読んでテレビ局の番組に乱入し、あの世界の抜け穴と探し回り、出口に突っ込んでどこかの家のモニターから飛び出し(おまえはドン・ガバチョひょっこりひょうたん島か!)、なんども脱出してはもとのこの世界から抜けることができず、そのうちに「会社」の指令で「おれ」を尾行する者がいることに気付き、まこうとしても尾行者はどこまでもついてきて、その尾行者は能無しであるのに「おれ」のことを良く知っている。時計店、天文台回転木馬、会社をめぐり、どこにも尾行者はついてきて、それぞれの場所にいるだれかと「インタビュワー」「やぶれかぶれのオロ氏」「最悪の接触」のような会話をして、尾行者のいうとうりの人生を「おれ」は送り、すなわち(という言葉を使うわけにはいかないが、このサマリーではそうせざるをえない)、「おれ」は脱出するものであるが同時に尾行者であり、どうやらこの世界のすべての人物は「おれ」の多様な変奏ないし、平行世界にいるすべての「おれ」がこの世界に集まったとみえ、ゆいいつの他者は「正子」であるが、彼女はガールフレンドであり、人形であり、社長であり、尾行者に命令する者であり、母であり、つまりは「おれ」のアニムスであり、他者と思えたものも自分であるとすると、この世界にあるのは単に言葉であり、「おれ」はしゃべりやめたとたんに消失するのかもしれず、「おれ」は長広舌をやめないのである。
 なにを言っているかわからないと思うが、おれもなにをいっているのかわからねえ…もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…(AA略)。
 小説は「情報」「時間」「空間内宇宙」の3部からなり、その間に尾行者のレポートが挿入されるという構成。最後には、「おれ」はこの世界に、情報による呪縛、時間による束縛、空間による圧迫を受けていると認識する。さらには小説には平行世界論も書かれていて、そうすると脱出するべきこの世界は平行世界にあるどこかであって、脱出する先は読者がいる世界=小説中のあの世界であると思うだろう。ほぼ同時期に赤瀬川源平が櫻画報で「マンガ」にいるキャラクターが自分がいる世界を現実といい、読者のいる世界を「マンガ」と呼んで「マンガ」の世界に脱出したいという回があり、それによく似た構造にあるので、このような推測は可能であるのかもしれない。ようするに読者のいる物理現実の世界は無数にある平行世界の中で特権的な価値を持っていて、そこに脱出することは幸福であるのだ、と。
 と凡百の陳腐なアイデアに寄りかかりたいと思いつつ、どうしてものちに書かれた「虚人たち」を思い出せば、そうとはいえなくなる。「おれ」のこの世界が情報や時間や空間内宇宙で呪縛、束縛、圧迫されていて、小説内で「おれ」がどのようにあがこうと、この呪縛、束縛、圧迫から抜けられないとすると、「おれ」を拘束するのはそのような読者の物理現実の制約なのではない。とすると、小説内存在の「おれ」を拘束するのは、言葉にほかならず、小説内でことばが消失しない限り「おれ」は存在するようであるので、この仮説はおおむね正鵠を射ているのではないか。というところで「残像に口紅を」を思い出す。
 そうすると、「虚人たち」と「残像に口紅を」はこの小説の続編になるのか。この小説の「おれ」は自分の存在根拠を疑うことはないが、前者はそこから「現実」を、後者はそこから「言葉」を脱落させて、存在の無根拠性を虚構内存在の「おれ」に痛感させたのではないか。