odd_hatchの読書ノート

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ヘレン・マクロイ「家蠅とカナリア」(創元推理文庫)

 1942年というと第2次世界大戦が進行中。欧州戦線は膠着状態にあって、ニューヨークでも灯火管制がはじまることになっている。それでもブロードウェイの劇場の灯は消えず、今日も「フェデーラ」の初演の幕があく(フェデーラの作者サルドゥはプッチーニのオペラ「トスカ」の原作戯曲を書いたことでしられるだけ、だそうだ)。

 精神分析医ベイジル・ウィリングはこの初日に招かれたが、いくつかの不審なできごとが。前日の夜に、劇場近くの刃物研磨店が押し込みが入り、カナリアが離されていたこと。不吉なセリフにしるしのついた主演女優の台本が劇場上から投げ捨てられたこと(上記のように灯火管制の準備中で照明は限られていて暗い)。芝居で使う外科用のメスが一本なくなっていること。
 劇には死体役が登場するが、第1幕が終わったとき、舞台小道具である外科用のメスで殺されていた。上演中で観客のみならず劇場関係者が注視しているのにいつ殺されたのかわからない。ただ上演中に近づけたのは3人だけ(のちにあと数人に可能性が出てくる)。奇妙なのは、メスの刃には血がついているのに、家蠅は柄にばかり引き寄せられる。いずれもささいすぎて、ほかの探偵だと見逃してしまうかもしれないな。
 このあと、ウィリングが部隊の関係者をヒアリングしてまわる。そうすると容疑者の過去のが次第にわかってくる。この時代の舞台は、プロデューサーがいて、主演・脚本を決めてから、劇場を予約し、脇をそろえ、上演にこぎつける。そのシーズンだけのプロジェクト集団を作るというわけだ。劇団所属のメンバーだけで公演する日本的なやりかたではなくて、フリーのプロがその都度の契約で参加するという仕組み。そのうえチャンスを求めたり下手だったりすると、すぐに抜け出るので、オーディションでメンバーを追加する。なので、プロジェクトメンバーでも互いのことは詳しくない。そういう希薄な人間関係であっても、主役級は過去に因縁があったりする。主演女優のウォンダは42歳の年増でも注目を浴びていたいという目立ちたがり。ハンサムなロドニーは臆病。レナードは優れた俳優だが数年間のブランクがある。売れない脚本家は皮肉屋で出しゃばり。殺されたのは金持ちのエンジニアで、妻と離婚する予定で、ウォンダと付き合っている。その妻マーガレットは上演のパトロンになっていて、殺人事件の翌日にウォンダへの腹いせで再演を命じる。死体役の俳優はいなくなったので、売れない脚本家が立候補したが、同じく上演中に外科医のメスで殺されてしまった。
 いい小説だなあと思うのは、上のような小さな謎が後の謎解きの重要な伏線になっているという技術的なところに加え、現在起きている事件のストーリーが面白いところ。容疑者や関係者の尋問が長いことと続くのに、1920年代探偵小説黄金時代の長編のようなつまらなさが一切ない。過去の物語が断片的に語られるところからプロットを再構成するのも楽しい(ロス・マクドナルドの小説ほどには錯綜していないが、それぞれの登場人物の過去がからみあっていてなかなかに複雑)。容疑者は3人+アルファと少ないのに、「意外な犯人」の設定に成功。
 そのうえ、劇場や舞台に関するうんちくや裏話がおもしろい(知識のひけらかしにならなくて、事件の謎解きに関係した情報)し、人物の性格や心理描写が巧みでほとんど登場人物がマリオネットのごとき木偶ではなくて、ちゃんと「生きている」(書かれていない生活や瑣事を想像できる)。その上、この作家は独自の文体をもっていて、目の積んだ描写と適切な比喩で読書の楽しむを増やす(しかも作品ごとに新たな文体を作るという離れ業も)。
 ヴァン=ダイン「カナリア殺人事件」を読んだときに、黄金時代の長編探偵小説はストーリーとプロットのそれぞれに問題ありと感想を持ったが、1942年のこの作には、その不満はないし、技術・描写・文体もしっかり練れたもの。凡百のエンタメ小説の書き飛ばした感じはここにはまったくない。たった15年で探偵小説はここまで進化したのかと驚いた。この作家はただものではない。
(小説のテンポはゆっくりしていて、暴力やロマンスなどにリミッターがかかっている。ウィリング博士の優雅でジェントルな物腰と高い知性に裏付けられた会話は貴族的。作品同様に読者も精神的な貴族であることを求めている。自分は高評価。でも戦後の読者は、チャンドラーやアイリッシュらのもっと殺伐としてサスペンスフルな作品を愛好してしまった。ちょっと残念。あとネットの感想でなるほどと思ったのは、論理が弱いという指摘。家蠅とカナリアの手がかりに対する解釈が直截すぎるという。まあ、そうともいえるね。)