中国との15年戦争はおもに日本人側の記録を読むことになるのであるが、そうすると被害者がどのような人であり、どのような生活を送り、どのような生涯であったのかがすっぽりと抜けてしまう。兵士や記者、あるいは一旗揚げようといった者たちは中国の生活者を知ろうとせず、会話も行わなかった。兵士ではないインテリである武田泰淳や堀田善衛、マルローらにしても、中国人の内面には踏み込めない。八路軍に取材したスノーやスメドレーにしても、内面の吐露を受け入れるまでには至らない。そうすると、彼らの体験したことの総体は自身に語ってもらうしかない。といって、毛沢東存命中の中国からはでてくることがなかった。毛の死、および四人組の裁判が行われ、開放政策に転じた1980年代になって中国の文学者は新しい言葉で体験を語るようになった。
(それが伝わるのは、文学より前に映画から。陳凱歌「黄色い大地」、張芸謀「紅いコーリャン」などが衝撃になった。そのあとに、原作が翻訳される。)
で、映画のもとになった莫言「赤い高粱」を読む。これを日本人が読むのはつらいことだ。われわれの数世代前の1930年代に若者であった日本人が兵士として中国に派遣され、現地調達によって三光作戦を行う。結果、日本人は「日本鬼子(クイツ)」の蔑称で呼ばれ、どこでも恐れられる。日本人兵士が中国人の見分けがつかないように、中国人は日本兵に個性を認めず、服装で将官か兵士か他の役職かをみわけるだけ。やることは同じ鬼畜の所業なのであるから、単なる「鬼」で一括されてしまう。そういうふうに日本人は見られていた。
第1部 赤い高粱
1939年8月の中国山東省高密県東北郷。山東半島の付け根で、青島市の近く。国民党の影響が強いが、この年には日本軍が占領していた。
この小説は奇妙な構造をもっていて、語り手の「わたし」は登場しない。彼の父が10歳くらいの「豆官」として、中心人物で祖父の「余占鰲(ユイチャンアオ)」のまわりをうろちょろしている。父は母(「わたし」の祖母)を慕っているが、このとき30歳。祖父と祖母と名付けられているが、物語では年若の夫婦として現れる。それによって発表年の1987年からみた1939年が遠い過去のものになる。異化をもたらす叙述のしかけだ。
日本鬼子に支配された東北郷では、中国人は強制労働を強いられていた。わいろや小金を渡さない苦力には鞭や棒で折檻し、わずかな食糧しか渡さない。怒りが鬱屈し、ある中国人が脱走を試みる。途中、ロバがハラスメントを受けている(貧しい食糧、清掃しないで糞尿まみれ)のを解放しようとするのを見つかる。鬼子は住人の肉屋に男の皮をはぐよう命じる(この後の凄惨なシーンはサマリーにいれられない)。翌日、祖父の指揮するパルチザン部隊は国民党軍の連絡を受けて、鬼子軍を待ち伏せすることにする。一昼夜たって鬼子は来ない。祖父は国民党軍に文句を言うことにして、父(の豆官)に食事を用意するよう家に伝えることを命じる。祖母と村の女が届けに来た時に、鬼子軍が到着し、まず祖母を射殺する。そして少数のパルチザンによる圧倒的に不利な奇襲。
鬼子とされる日本軍のダメさにまず絶望的な思い。アジアの解放など思い付きのいい加減なスローガンを振りかざして、やってきたことはこういうこと。軍隊の中には、日本の故郷では人の好い親切で勤勉な男が軍のなかでスポイルされてただの殺人機械に貶められる。
鬼子の殺した中国人にも個人の歴史と思いがあり、その情感の細やかさがある。それが表れるのは祖母の九児(チウアル)。小説からわかることは1909年生まれで16歳でこの村に嫁いできた。途中、花嫁をのせた篭をかつぐ若者らに意地悪されるが、追剥にあったときの態度で若者らを精神的に圧倒する。そして島嶼の結婚相手から逃げ、駕籠かきの一人である祖父と結婚する。子供が一人。上の事件にあったとき、祖母は30歳の若さだった。この回想は日本軍が侵略占領していない時期のもの。小説の現代が死と血にまみれているのに、回想では幻想のように美しい(男による女のいじめ、暴行などはひどいものであるが)。その違いの大きさが、現在の悲惨さを強調する。同時に、死につつある祖母の意識の流れから、彼女の高貴な感情に強く打たれる。
2023/01/09 莫言「赤い高粱」(岩波現代文庫)-2 1987年に続く