odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

トーマス・マン「マリオと魔術師」(角川文庫)

 表題作ともう一作がはいった短編集。いずれも1920年代の不安と不況を反映した時代の物語。

マリオと魔術師1930 ・・・ 北イタリアの避暑地を訪れたドイツ人作家の一家。ある夜、魔術師が町の劇場で公演をするというので、一家総出で見に出かけた。この魔術師が観客を幻惑し、彼の掌中におさめていくやり方が細かく書かれている。たとえば、わざと開始時間を遅らせ観客の注意を集める、フロックコートにシルクハットにモノクル(片メガネ)に口髭という古めかしい衣装で人目を惹きつけ、高圧的な口調と慰めるような優しい口調を使い分け、しきりに民族意識を高揚させ、おしゃべりをやめない。彼の見せる魔術はそれほど目新しいものではないが、彼のおしゃべりに動作に観客との巧妙な会話によって、舞台に集中していく。彼の得意技は催眠術で簡単に数名の男女を躍らせることに成功し、自分にそんな技はかからないと頑強に抵抗する若者にも術を掛けることに成功する。ここに至って、観客は完全に魔術師の手中に収まってしまう。それが失敗するのは、街のレストランで給仕をする若い男、マリオを舞台に上げてから。魔術師はマリオの秘密を暴いてみせるといって、若い女の口調で彼を口説きだす。そして・・・
 時代は、ジブリ映画「紅の豚」の数年後にあたり、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を持っている。不況とインフレ、そして社会不安のある中、人々は解決を求めるのだが、自分で問題にあたらず、指導者を求めてしまう。そのときには理性的な判断が働かず、熱狂のうちに指導者(フェーラー)を求めてしまう。そのあたりの心理の風景を描いたものとみていいだろうかな。ウェーバー職業としての政治 職業としての学問」との類似をみておくとよい。この魔術師の舞台の様子はヴィーネ監督「カリガリ博士」にそっくりなので、この映画を見ておくとよい。
 冒頭からしばらくは「私」が家族をつれてトレ・ディ・ヴィネーレの町に来て、イタリア人の中でドイツ人が不愉快な目にあうことを書いている。「ベニスに死す」と同じ展開で、しかし主題を無関係なのですこし退屈。ところで、「私」の8歳の娘が全裸で海水浴をしたために、街中から非難される。ドイツのヌーディズム運動はイタリアには波及していない、ということかな(なんちゃって)。

混乱と雅な悩み1925 ・・・ こちらはハイパーインフレで生活苦にあるドイツ人一家のある一日。インフレで給料は800万マルクにもなるが、それ以上に物価が高くて物が買えない、いや物が市場に出回っていない。だから服は着古したものを仕立て直さないといけないし、見た目も格好悪い。しかし子供や若者はそれが普通のことだと、無邪気でいる。それが19世紀生まれの大学教授の爺さんには不憫でならない。なにかのパーティを開くことになり、家族と親戚が集まった。そこには若い男女の恋愛もあるし、子供の教育問題もあるし、なにより明日の食べ物の入手も気にしないといけない。それでもまあなんとかいくだろう、というようなストーリーのないスケッチ。
 日本の留学生にとって、このハイパーインフレは天国であったのだが、そこに住む人にとっては大変。その差異をみるのが必要かな。なので、三木清や和辻哲郎などの同時代のドイツ留学生の思い出も読んでおいたほうがよい。
 解説にもあるように、生活描写や人物描写が哲学や観念の話になっていくというのは、ドイツ人に特有のことなのなしら。とりあえず作者のトーマス・マンはそういう文章を書く人で、難しい文章の先にあるのはもしかしたら通俗生活道徳みたいなものかもしれないけど、読んでいる間は高尚な気分に浸れる。