平家の滅亡は、「平家物語」「源平盛衰記」などの文学によってよく知られている。それらから派生したさまざまなエンターテインメントによって主要な人物は明確なキャラがつくられ、日本人のある種の典型とされている。しかし史料を検討すると、文学は後から創作された形跡があり、歴史学の資料として扱うには慎重でなければならない。というのも、平家が政権を持っていた時期は短く、平家が監修した歴史書を作ることができなかったためであり、平家滅亡ののち関係者は文書を破棄したようだからだ。参照できるのは鎌倉方のものか文学であるとすると、これまでに培われてきた12-13世紀の政治史は見直されなければならない。
というわけで著者は史料を読み直す。そこから分かったのは、1150年ころから鎌倉政権樹立までの通史の見直し。箇条書きにすると、
・律令制でできた国衙に対して、貴族大寺社の私的な土地所有を認めた荘園ができた。いずれも中央で管理するものだったが、困難。地方では国衙と荘園が衝突するので、揉め事争いごとを処理し、警備にあたる侍が重宝される。侍には貴族と庶民の中間で、武士と文士がいた(なので、1150年以降には平家の出身者が宮廷に入って、貴族と同じ文芸を行うものがいた。宮廷は儀式を執行することが政治家の権力の証であるが、新参者の平家には史料がなく、経験も浅いので、他の貴族の助けを必要とする。それで平家出身者は旧貴族に疎んじられ軽く扱われる。
宮廷のしきたりや政治(儀式)の仕組みは下記が参考になる。明月記は宮廷の記述が主だけど、ときどき平家の文士が登場するので、史料になるのだそうだ。
土田直鎮「日本の歴史05 王朝の貴族」( 中公文庫)
堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫)
堀田善衛「定家明月記私抄 続編」(ちくま学芸文庫)
・侍の系統のなかで平家が力を持つようになり、保元平治の乱を鎮圧することで、中央の武力を独占した。ことに一門の中心である清盛の力が大きい。彼は1180年のクーデターで平家による幕府を作る。清盛は王朝と距離を置くことで実質的な権力者になった。列島で最初の武家政権(従来は鎌倉幕府とされていた)。
・特長は、1.王朝樹立を目指した(土地の管理者を決める人事権をもち、全国の大半を平家の知行地にする)、2.中国貿易発展、中国の文化や技術の導入に積極的、3.「幕府」権力を創出。鎌倉政権は2を否定したが3を継承した(鎌倉政権は独自であるとみるより、清盛の構想を推進したとみるべき)。
<参考エントリー>
與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-1
與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-2
・このような権力の集中は中央と地方で反発を招いた。通常、1180-1185年までは源平合戦とされるが、源氏平家とは関係ない騒擾や反乱が各地で起きていたし、源氏平家に統一した政策や軍略があったわけではなく、源氏平家の内部で反目離反があり騒乱があり、平家の都落ち以後は宮廷で平家除名や所領没収が行われたりしたので、内乱と見るべきである。
・そういう観点からみると、頼朝-義経の関係はもっと複雑であるし、さまざまな合戦の戦功も別人に帰す。一の谷では義経の鵯越はなく多田行綱や梶原景時が戦勝の功であり、屋島の合戦以降平家から脱落者が多数出て、壇ノ浦は平家方の阿波民部成良の裏切りが平家の敗北を決定つけた。義経は平家滅亡後京都に残っていたので、自分の都合のいいようにした証言が物語に反映されたらしい(なにしろ情報伝達がままならず、ジャーナリズムも研究者もいない時代だ)。
史料の読み直しで歴史の記述が変わる。参考エントリーにあげた本を読むことで、鎌倉政権は大和朝廷の権力を完全に移譲されたのではなく、東国政権を作って二重支配体制になったという認識を持っていたが、それをさらに補完・強化する内容だった。清盛があと10年長生きして、中国貿易を強めるグローバル化が実現していたら、この国の鎖国化や外国恐怖はもっと和らいだものになっていたのかもしれない。それくらいの妄想をしたくなるほど、12世紀末は激動する変化の時代だった。
(あいにく平家だけですら数十人の名前が出て、彼らの行動が詳述されるので、人のことを考えるまでにはいかなかった。名前を覚えるのは苦手。)