odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

西村京太郎「D機関情報」(講談社文庫) 1944年のスイスを舞台にしたスパイ小説。右翼がリベラルに目覚めるというとても珍しいテーマ。

 西村京太郎デビュー直後の1966年に発表した長編。時代は1944年で、舞台はスイスの有名都市。日本人が主人公だが、ほとんどのキャラは現地及び周辺国の人たちだ。高度経済成長中、日本人が海外出張しているのと同期した小説として読んでみたい。

第二次大戦末期、密命を帯びてヨーロッパへ向かった海軍中佐関谷は、上陸したドイツで、親友の駐在武官矢部の死を知らされる。さらにスイスでは、誤爆により大事なトランクを紛失。各国の情報機関が暗躍する中立国スイスで、トランクの行方と矢部の死の真相を追う関谷。鍵を握るのは「D」。傑作スパイ小説!
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-08-EK-0262277


 背景を書いておくと、1944年のドイツ(および日本)は敗色が漂っている。本書中でも、ムッソリーニの失脚、連合国軍のノルマンディ上陸、ヒトラー暗殺事件、パリ陥落がでてくる。日本の戦線でも、サイパン島玉砕、東条内閣辞任などがある。そこにおいて、希少金属の確保のために中立国スイスへ買付に行くのであるが、やはり日本の軍人は目立つせいか、すぐに襲撃され、尾行され、不審人物の接近が相次ぐ。当初は、サマリーのようにトランクの行方を捜すことがミッションになる。容疑者は同じ自動車にのったドイツ人、フランス人、アメリカ人など。中立国スイスであっても、人の移動が多いせいか、彼等怪我人の行方は用として知れない。とりあえず関谷の目の前で死んだ女性が「ディー」とつぶやくのが唯一のでがかりである。そして関谷に接近してきた日本人ジャーナリストやホテルのバーテン、ドイツのエージェントなどが次々と死んでいく。
 それをみても関谷のあたまがうまく動かないのは、この国の構造や教育に問題があるはずなのであって、単一民族幻想と植民地の存在は「スパイ」の思考と方法を学ぶには不適なのだ。人を見れば疑えととりあえずの友好関係を築けと相手を出し抜く会話の妙を身に着けることはむずかしい。ことに「帝国不滅」「我軍不敗」幻想に凝り固まる軍人においては。なのでその種の職業が古くからある国で書かれたル・カレやフォーサイス、グレアム・グリーンなどのスパイ小説に遥かに及ばない。
 というのは、この小説のもうひとつの主題は右翼がリベラルに目覚めるというとても珍しいテーマを扱っているから。関谷は先にスイス入りしている友人矢部の事故死に不審の目を向ける。ジャーナリストの手によって保管された矢部の遺書を読んで、彼は帝国側からリベラルに転向する。その心理過程はうまく書かれない。矢部の遺書を繰り返し読み、戦況を分析する中で、和平こそが達成すべきミッションなのだと確信するのである。したがって、誰が盗んだかからどうやって和平交渉相手にたどり着くかが「スパイ」の仕事になる。そうすると、すぐに関谷が和平の側にあることがスイスの諜報機関の知るところとなり、連絡先は探さずとも接触するようになる。それはどうもお手軽なお伽話であるようなのだが、転向した関谷はもはや不審をいだくこともしない。もうひとつお伽話といえるのは、一介の海軍中佐である関谷が分厚い壁を突破して海軍首脳と政府を説得できると豪語するところ。こういうところに日本人スパイの素人臭さがある。
 史実のように日本政府および軍が行った和平工作はすべて失敗する。史実を曲げるわけにはいかないのだが、関谷のような和平工作が「あった」とする。それをフィクションで書こうとする意図が分からなかった。戦時下でも日本には和平の意志を持つ人間がいたと賞賛するのか、軍隊にも和平交渉の意図があったと擁護するのか。
 前半はなかなかよいスパイ小説と思ったが、後半の転向以降は失速。1966年では海外情報が入手できなかったのか、スイスの都市が無機質で書き割りのような平坦さだったし、キャラは日本語ネイティブな人たちばかり。作者は自作の代表作と見ているようだが、それには首肯できないなあ。こういう日本の「スパイ」であれば、堀田善衛の「歯車」「歴史」「スフィンクス」の方が優れている。

 

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<参考エントリー>

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