odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

堀田善衛「歯車・至福千年」(講談社文芸文庫)

 堀田善衛のデビュー時からキャリアを重ねた後までの短編を集めた。作家の文庫には短編を集めたものがほとんどないので(ほかには「バルセローナにて」しか思い当たらない)、貴重。

潟の風景/風/朝/哀歌/天の誘ひ ・・・ 初期詩編。1947-48年にかけて発表。「若き日の詩人たちの肖像」にあるように作家は詩人として出発する。友人の田村隆一らと比べると、詩想が散文的で映像的で物語の一部分であって、十分な結晶化・抽象化ができていないように思う。小説を書くことに専念してくれて、ありがとう。

波の下 1947.12 ・・・ 長編「祖国喪失」の一部。昭和20年に初夏の上海。東京大空襲のあと、上海に来た杉が市内をウロチョロする。中国人の学生のつくる新聞の顧問になり、同級生だった陸軍中尉に注意され、人妻の公子と逢瀬を重ね(夫は高級士官で戦場を放浪し、自身は途中の航海で潜水艦攻撃で幼児を亡くしひとり助かる)、租界をうろつき、ロシア人の闇の酒場で泥酔する。この数か月後に上海が戦場になり、秋には日本が負けるとわかっている。でも、まだその時ではない。緊張しているが、何ごとも起こらないルーティンが続いている。そのモラトリアムは杉と公子の関係にもあてはまる。日本でも戦場でもない都市で軍属でない日本人でいることは「役割のない人間」であることであり、咽喉まででているが形にならないある思念をもどかしくこねくること。

歯車 1951.05 ・・・ なるほど、この国が占領中に、この国が上海を占領していた時の物語を発表していたのか。昭和20年初夏の上海。日本の敗色濃厚で、すでに軍の統治は緩んでいる。それでも国民党と共産党は非合法であり、日本、傀儡政権、国民党、共産党は四つ巴の謀略合戦をしていたのである(この国は特高は優秀でも、スパイはダメ)。日本敗北の暁には後者が立って、救国活動を開始するはずであるが、反目する仲とあっては互いにけん制し、隙あらば目障りな連中を排除するのを躊躇しない。数年前の支那事変で救国活動に参加していた若者も逮捕されて偽装転向したのちのに身の振り方は異なる。ことに、女性の秋は「漢奸」とされる傀儡政権の秘密工作員として、かつての同志を暗殺するかもしれない使命を与えられるのである。物語の大半は、秋によるスパイ活動のモノローグ。誰がどこに所属しているかはわからず、しかし虎視眈々と狙っているものと思われると、気持ちの安らぐことはない。ある青年を満州に逃がす手助けをするところから彼女の状況はいきなり急発進する。同じ文化協会に所属する上司や同僚を密告し、暗殺することも辞さない。その心持は中国を呪わなければならないほどに荒むのであった。その長い話を聞くのは敗戦国の伊能。たんに日本から逃げ出すために上海に逃れた男は「敗戦日本として条約上の人権が保護」されているという奇妙なモラトリアムにある(いっぽう、戦勝国の中国の人権は保護されない)。なにものでなく、たんに政治の波間に浮かぶ無責任で「夢遊病者」のような男は眺めるしかない。凡百のスパイ小説など捨ててしまいたくなるほどの緊迫した政治小説がここにある。秋はかつて愛した男を救うために、身を与えた昔馴染みの同志を殺すことを躊躇せずに行わざるを得ない。その荒んだ心根。これはマルロー「人間の条件」の本邦版。短いものなので、多数の心情を描くことはせず、ほぼ秋にフォーカスし、それを眺める傍観者の日本人の空虚さをみる。日本人の心情は「コミットする」という決意表明まで。このあとの「広場の孤独」と同じ主題。

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鶴のいた庭 1957.01 ・・・ 1920年代初頭の富山の回船問屋没落の様子。江戸時代から日本海の海運業を行ってきた(ときにロシアや朝鮮との取引もあったらしい)「百姓」が明治以降の巨大資本や蒸気船との競争に勝てなくなる。そこに関東大震災第一次大戦後不況の影響で経営がおかしくなる。一方、長年大きな家を構えていたために、文化資産がたくさん残っている。没落を象徴するのが、時代から取り残された曾祖父やけっつあ爺。彼らは時代から超然としようとして、かえって痛々しい。作者の筆にかかると、彼らはのちに取り上げることになる鴨長明藤原定家モンテスキューらに近しく見える。

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メノッキオの話 1983.06 ・・・ 16世紀スペインで異端審問で処罰された粉屋メノッキオ、本名ドメニコ・スカンデッラの半生。詳細は参考文献にあげているカルロ・ギンズブルグ「チーズとうじ虫」1972年(邦訳1984年)を参照。教育を受けていない粉屋がおしゃべりと貸本(貸本の普及は ドイツ民衆本の世界」(国書刊行会)のエントリーを参照)の知識で、チーズとうじ虫による宇宙開闢論を唱えていたのが、司祭や村人の密告などで2回の異端審問のうえ火刑に処されるまで。同時代にはモンテスキューラブレーがいて、地方の村人が宗教的相対主義を唱えていたことに注目する。メノッキオの唱えた天上生活にはコーランの影響がうかがわれ、16世紀初頭にヨーロッパの俗語に翻訳され広く読まれていたとのこと。メノッキオはいう、「あなた方僧職の方々は神よりももっと多くのことを知ろうとして、悪魔のように、地上の神々になろうとしている」と。これはドスト氏「大審問官」のテーマに通じる。さらに、当時の粉屋は村のはずれの川にある。そのため農民に嫌われる(製粉に不正・搾取があるのではないか、水車が領主の貸与品なので領主と直接しゃべれるのでスパイなのでは)一方で、情報の集積地で集会場になっていた(ドイツ農民戦争の秘密集会は粉屋で行われた)などの周辺知識もおもしろい。

至福千年 1984.06 ・・・ ヨーロッパの宗教的情熱の行方。新旧の聖書にある預言者の謂いは、千年王国の夢をヨーロッパの人々にみさせることになった。それは古代から中世のヨーロッパにとってイスラムの現実はありえないほどの豊かさを持っていたから。その夢が11世紀の「十字軍」の時代に悪夢に転化する。すなわち人口急増が起きて(その背後に農業革命があるが人口増に追い付かない)、人々は急激に貧困化していく。おりしもローマ教会は東方教会の救済のための布告を出したが、下級の人々や貧困者にとっては貧窮を挽回するチャンスとみて、勝手に流浪人となって、強奪と強姦と破壊を繰り返しながら、エルサレムを向かうことになる。そこでおきるホロコースト。同時期にはユダヤ人への迫害や虐殺もおこり、教会もそれを止めえない。鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)は描かない中世の「暗黒」面。恐ろしいのは、21世紀に現れてきた排外主義や人種差別の運動が、ここに描かれた中世の狂熱の人々と寸分たがわないということ。おぞましい悪が現出しようとしている。それは1000年前におきたことの繰り返し。人間はなんと度し難いものであるか。


 堀田善衛が人物を描くと、「ふへえ」と口をあけっぱなしにしたり、考えをまとめられなくて沈黙に陥ったり、ふと座をはずして遠くを眺めたり、およそヒーローというには程遠い人たちになる。行動して他人とぶつかったり、鑑賞したりすることで物語を推進する人物にはあまり興味を示さない。そういう人物はいても、たいていは脇にいて得体のしれない人として現れる。そのかわり、主人公たちは得体のしれなさを解読しようと観察や勉強を欠かさない。
 そういう得体のしれなさは、彼らの心情をつかもうということには向かわず(だか私小説のような身辺雑記には無頓着)、彼らの得体のしれなさの原因と思われる政治や歴史をつかもうとすることになる。ところがこの政治や歴史は個々人の得体のしれなさとはけた違いの深さや重みをもっているので、ますます得体のしれなさはでかくなっていく。それでもなお、掴もうとして、もういちど「ふへえ」と口をあけっぱなしになったり、考えをまとめられなくて沈黙に陥ったり、ふと座をはずして遠くを眺めたりすることになる。それでも最初の「ふへえ」からは少しは変わったところに行くことができて、それが歴史の重みを体得しているからに他ならない。それこそ「メノッキオのこと」「至福千年」に書かれるヨーロッパ中世の姿は歴史書にはなかなか書かれないことであって、読者である自分の眼のウロコを何枚をはがす衝迫力を持っている。

 

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