2024/09/23 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 3」(光文社古典新訳文庫)第3部第8編「ミーチャ」 何もかも失ったと思い詰めたドミートリーはモークロエの大宴会で愛を見出す 1880年の続き
前の編では、ドミートリー(ミーチャ)が大慌てになって金策に走り、フョードルの家に忍び込み、逃げ出して血まみれのまま宴会の準備をさせ、居合わせたポーランド人といさかいを起こし、グルーシェニカと愛を確認しあう。そこで抱き合って大団円になるはずの成り行きなのに、二人が触れ合う寸前に検事ら闖入して二人をひきはがす。まるで、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の第1幕と第2幕第2場までが圧縮されたようではないか(楽劇の初演は1865年)。なんとも心憎いテクニックで書かれている。次の第9編は楽劇第2幕の第3場にあたる告発場面。告発の間、トリスタンは沈黙していたが、ミーチャは黙っちゃいない。
第9編「予審」 ・・・ フョードル殺害の発覚は早かった。使用人グレゴーリーの行方が心配になった妻が物音に気付くと、スメルジャコフは癲癇の発作で七転八倒、そとではグレゴーリーが血まみれになって倒れている。そこで人を呼ぶとフョードルの死体を発見し、ドミートリーがピストルを担保に金を借りた官吏に通報したというわけだ。そしてすぐに足取りがわかり(あれだけ目立つ格好と奇矯なふるまいをしていれば、人の記憶に残る)、明け方にモークロエの宿に到着した。
そのあとは夜明け前からの長い尋問になる。前の章で「わたし」という記述者(最後まで名が明かされない)が書いたことが繰り返されるので、サマリーは作らない。ドミートリーは父を殺したいと何度もいい、フョードルの部屋を開ける秘密のノックを知っている3人のうちの一人(フョードルとドミートリーとスメルジャコフ。イワンに教えたことは誰も知らない)であり、目撃者の証言などからドミートリーが犯人であるのは明らかだった。検事が注目したのは、ドミートリーが入室したのとは別の庭側のドア。ドミートリーは閉まっていたといい、グレゴーリーらは開いていたと証言する。ドミートリーが偽証しているとみなされた。もうひとつはドミートリーが豪遊した金の出所。フョードルの部屋から3000ルーブルがなくなっていることが分かったので、ドミートリーが盗んだはずであり、実際それと同額が一晩で使われたと居酒屋その他が証言した。そこでドミートリーは殺人と強盗とグレゴーリーへの暴行傷害の罪があるとみなした。調書が作られ、ドミートリーがサインした時から彼は囚人となった。もはやグルーシェニカと話しあうことはかなわなくなったのである。
ドミートリーの証言によると、モークロエの豪遊は1500ルーブルなのである。その金の出どころはカテリーナだった。預かった金3000ルーブルの半分を前のグルーシェニカとの豪遊で使い、そのことが恥ずかしかったので残りの1500ルーブリを古い布で包んでずっと肌身離さず持ち歩いていた。どんなに文無しになろうと、この金には手を付けなかった。今晩、フョードルの部屋を出た後、使用人グレゴーリーを杵で殴り殺した(と思い込んだ)ので、自分はもはや生きていてはならない下劣な卑怯者であると確信した(しかしそれより下劣な泥棒にはならない。まして殺人など門外)。なので残りの金を使い果たし、ピストル自殺するつもりだったのである(その覚悟をしていながら豪遊してしまおうというのが、ドスト氏の小説では初めて登場。スヴィドリガイロフは自分の金を他人に配りまくり、キリーロフはもとより文無しであり、スタヴローギンも「おかしな人間(の夢の語り手)」もそうしなかった。ああ、しまった。「賭博者」の語り手がドミートリーと同じだった。)
彼の考えはどうもよくわからない。フョードルを脅したりスネリギョフを叩きのめしたりグレゴーリーに暴行傷害をするよりも、だまして借金をし返済を滞らせ金を着服するほうが恥辱で卑怯なふるまいになるのだそうだ。なのでピストルを担保にした借金は返済する。これがおかしいというのは、検事もドミートリーにつっこんでいた。金にうるさいドミートリーの面目躍如(でもラスコーリニコフのように貧しい人や虐げられた人に配分することはしなかった。弱い人へのまなざしは逮捕され囚人になってから生まれる。調書作成中に見た夢。)
前の編で、グルーシェニカの愛の告白を聞くことによって、自分がだめな人間であっても生きていけると確信する改心がドミートリーが訪れた。さらにこの章では、無実なのに殺人犯とみなされることによって愛し愛される対象が全人民(のうち貧しい人や虐げられた人々)まで広がる。普遍的な愛を自覚することができた。なので収監される直前に、ドミートリーは「許してください、みなさん」ということができる。でも殺人犯とみなされたドミートリーは許しを拒まれる。彼の改心は社会から受け入れられないのだ(まあ殺人犯であると確定して言うようだと思われていながら、無実を主張しているので、発言の信ぴょう性を疑われているのだろうな)。そうすると、ドミートリーの次のテーマは「自分を許してくれ」を受け入れてもらうことになる。なので、自分は一番卑劣な悪党であり、自分一人ではぜったいに立ち直れないから、そとからがつんとやられて、苦しんで、苦しむことで浄化されることを望む。ドミートリーに与えられる罰は殺人や脅迫の償いではなく、自堕落で卑怯で自分の行動性向を変えるための手段であるのだ。
(「許してください」はその前の章で御者に同じことを言ったのを思い出そう。そこでも許すとはいわれず、あいまいに口を濁されたのだし。そうすると、ゾシマ長老がドミートリーの足元に跪いたことの重要さが見えてくる。この振る舞いの意味は誰にもわからなかったが、未来を予知していた。ドミートリーの改心と自己変容のための修業をゾシマは見抜いていたのだ。さらに、ゾシマ自身の改心をドミートリーの体験に重ね合わせたのかもしれない。自分の修業と同じ半世紀くらいの苦しみを経なければ、ドミートリーの望む浄化には至らないのだとも。)
ドミートリーの改心はほかの人にも影響する。まずグルーシェニカ。この誇り高い居丈高で他人に命令するのが大好きな女性も、自分を偽ってきたことを悔いる。他人を愛してきたが、それは「本来の」愛とは程遠く、支配や憐憫や世間体のためだった。彼女もまた普遍的な愛を実践する道を歩くだろう。驚くべきことに神の導きなしに。ソーニャ@罪と罰のような宗教体験や神秘体験を経由しないで、道を歩こうとする。
おかしいなあ、読書中はこの編は探偵小説的で、特に読みどころはないと思ったのに、いろいろ考えさせるではないか。ドミートリーに同情するような書き方になったが、この男は自堕落でふわふわしていて、暴力をすぐにふるうし、権力に弱く虐げられた人に強く出て、金銭感覚がいいかげんで、女好きで節操がない、およそ社会性のないどうしようもない男なのに。もしかしたらゴリャートキン氏@分身、マルメラードフ@罪と罰になりかねないダメ男なのに。彼をロシア性の代表とみるのはかいかぶりすぎ。
そんな彼は自分を罰して「新しい人間」に生まれ変わりたいという欲望を持つようになった。でも彼は、ラスコーリニコフのような自己規律を課すような思想を持たないし、ソーニャのようなメンターを持たない。この先どうなるかはわからないのだ。もう一つの懸念は、ドミートリーは他人に影響されやすいこと。相手がドミートリーに持った感情を鏡のように、カメレオンのようにそっくりそのまま映し出してしまう。向こうが怯えればドミートリーは怯え、居丈高になれば暴力的になり、熱情をこめればデレデレになる。ドミートリーの中心にあるのは自尊心と不安なのですぐに侮辱や恥辱を感じてしまう。他人に感化されやすい性向はどのようにでも流されてしまいそうだ。それに加えてドミートリーは女性に依存する。母がいなかったので、女性の愛情を欲していて、彼に同情しそうな女性にすぐに惚れて追いかけまわす。自尊心は強くても自立できていないドミートリーの行く末はとても心配。
(もちろんナロードニキの貴族が流刑地の過酷な生活を耐えて、社会変革の意思を失わなずにいられたので、ドミートリーもできるかもしれないが。)
ドスト氏はここを書くにあたってロシアの警察制度を調べたのだろう。「作家の日記」でも法廷で傍聴する機会がたくさんあったことを書いている。尋問シーンも当時のリアルなのだろう(でも初動捜査で検事が登場するのは意外。アメリカの探偵小説でも現場調査の検事がでばってきたっけ?)。書き方はガボリオにも似ていて、もしかしたらドスト氏はガボリオの新聞小説を読んでいたかもと想像するのは楽しい。
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2024/09/19 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 4」(光文社古典新訳文庫)第4部第10編「少年たち」 13歳にして「社会主義者」をなのる若造登場。スタヴローギンによく似た少年は続編の主人公? 1880年に続く