odd_hatchの読書ノート

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高橋和巳「日本の悪霊」(新潮文庫)-2 他人嫌悪のミソジニー男性が革命に失敗し庶民から疎外され、行き場を失う。

2024/02/27 高橋和巳「日本の悪霊」(新潮文庫)-1 狡猾な容疑者を中年警官が追いかけるサスペンス巨編。 1969年の続き

 容疑者・村瀬は朝鮮戦争のころに大学生であった。入学当初から鬼頭を名乗る元坊主が始動する革命組織に加入していた。彼らは武装革命を志し、まずは彼らを監視拘束する暴力組織に対抗しようとする。そこで地元警察の署長宅に火炎瓶を当投擲したり、占領軍のジープを襲撃してピストルを強奪しようとし、最後に資金調達のために地元大地主の金貸しの家を襲撃したのであった。村瀬は最後の事件で、いがみ合う顧問相当の男や鬼頭を襲撃チームに加え、自分は金貸しを殺してしまったのだった。組織の大半は逮捕拘留されたが、村瀬は逃げおおせていたが、8年もの逃亡生活に疲労していた。彼は不法侵入と金品強奪で逮捕されることにした。それは彼を安心させるはずであったが、社会の最底辺の連中との付き合いはむしろ他人と自分への嫌悪を強くする。その状態で村瀬は官憲との闘争に耐えなければならない。
 「日本の悪霊」のタイトルは、この革命組織が襲撃前に行う相談がドスト氏「悪霊」の第3部4で行う「会議」にそっくりなため。社会変革のために許された人間は他人の生命や財産を奪うことが可能である。それは奨励されることで、許された人間は率先して実行しなければならない。もちろん殺人という人の「掟」を踏み越えた者は罰をうけるべきであるが、それは実行することで実行者は殺されることが償われる。それに革命組織は革命が成立した後の政治的な指導者であってはならない。それは我々の革命で自己革命を遂げた次の正大の革命家の仕事であるから。自己陶酔と自己懲罰が入り混じった奇妙な選民意識だ。この選民意識は容易に全体主義運動に転化し、人々(people)を抑圧するファシズム国家になることは、すでにドストエフスキーの「罪と罰」「悪霊」で検討したので繰り返さない(いずれアップします)。ブッキッシュな指摘だけ。革命組織の「会議」はほとんど査問であるのだが、既読感があったのは埴谷雄高「死霊」第5章で同じシーンがあったから。いや、こちら「日本の悪霊」のほうが先なので、埴谷は高橋和巳のこの小説を読んで第5部の構想を膨らませたのではないかと妄想してしまった。鬼頭の革命論も1979年の笠井潔「バイバイ、エンジェル」に登場する革命家首領が主張する内容と一致する。革命家は、「共産党宣言」「国家と革命」が主張するように、国家の廃絶を目指すのであるが、そのためには賃労働・家族との関係を断ち、貨幣経済の外になければならないのである。その実践から存在と文化と政治の革命を達成しなければならない。革命組織の一員であることは修行であるらしい。究極の革命組織とはそういうものという主張(ちなみに、ドスト氏「罪と罰」のラスコーリニコフも同様に考えていた)。
 むしろ本書はドストエフスキーの「死の家の記録」に近しい。逮捕された村瀬は未決囚ばかりの拘置所に収容される。小説では十数人の共同部屋で、牢名主他数名が部屋を仕切る。これに逆らうとリンチを受けたり、食事配分を減らされたりする。そこには強盗や詐欺、強姦、強盗などさまざまな事案で逮捕されたものがいるが、大卒の村瀬からすると彼らは無知で道徳を知らず、上の命令には従うが下にはつらく当たるというさもしい根性の持主。卑屈でありながら自尊心はでかく、小心なのに態度がでかい。尊敬も共感も持てないダメな連中。これは大岡昇平「俘虜記」でも見られるインテリの庶民観。ドストエフスキーの「死の家の記録」では貴族出の語り手は粗野で無知な庶民の犯罪者から人間の尊厳を見出せたのとは正反対。日本の監獄・拘置所では逆に人間の卑屈さばかりを見せつけられることになる。民族の違いなのではなく、単一民族幻想による同調圧力社会で差別する側にしかたったことがないものが集まったからだ、というしかない。
 もともと村瀬には他人嫌悪なところがある。小説によるとその由来は、出自にある。村の金持ちの私生児として生まれ、小学生のころに母が死亡。妹はいなくなり、どこかで娼婦をやっている。彼は苦学して大学に進んだが、授業にすぐ幻滅し、周囲のインテリや金持ちの息子とうまくやっていることができない。これらが他人嫌悪、庶民嫌悪の理由らしい。そこにおいて社会変革をもくろむ「革命」は彼の空虚を埋める心地よさを与えたようだが、常につきまとう人づきあいは彼を頑固にし他人を寄せ付けないようになる。
 村瀬のもう一つの問題は女性嫌悪ミソジニー)。出自に理由があるのだろうが、彼は極端な女嫌い。なので、逃亡中に好意を寄せ内縁関係になった女に冷たく当たり、逃亡のために娘を利用する(途中で放置・遺棄)。作家が作った男性キャラには女性嫌いの女体好きがたくさん登場してきたが、その中でももっとも悪質な男だ。かれが実存に苦しみ、自己嫌悪に陥ろうとまったく憐憫できない。こいつの行動性向はひどいので、上に見た革命思想も陳腐で薄っぺらいものに見えるのだ。
 文庫の解説者は作家のセンチメンタリズム(詠嘆長の悲憤慷慨あたりか)をみているが、それは上記のような女性嫌悪の男性が持つものだな。夏目漱石福永武彦によくみられるやつ。

 

高橋和巳「日本の悪霊」

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