odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

エラリー・クイーン「十日間の不思議」(ハヤカワ文庫) エラリーの構築した論理は美しいが、あまりに空虚な虚空の伽藍。

 ニューヨークでエラリーは戦前のパリで出会った彫刻家志望の青年ハワードと再会する。彼は記憶喪失になったので、その間に犯罪を犯してたのではないかと恐れている。エラリーの執筆がはかどらないことをきいて、仕事がてら自分を監視するように頼む。行き先は思いがけずライツヴィル。
 ハワードのいるヴァン=ホーン家は一代で町有数の企業家になったディードリッチが率いている。彼は、孤児だったサリーを養育し、28歳になったとき求婚した。そのときディードリッチは60歳になんなんとしている。また彼の弟ウルファートは、独身で僻みがしい男。サリーもハワードもウルファートも、みなディーリッチの人格に圧倒されて、敬意を払うか、敵視するしかなく、彼の前では借りてきた猫よりもおとなしい。そのような心理的な厳格さと威圧感のある家で、宝石箱の盗難事件が起きる。そこにはハワードがサリーにあてた熱烈なラブレターが4通しまわれていた。エラリーの到着直後に、サリーに脅迫電話があり、金を要求される。しかもハワードとサリーはディードリッチの目を盗んで、不倫を重ねていたのだった。エラリーは彼らの懇願を受けて、脅迫者との金の引渡しに二度も使われる。そのうえ、2回目の引渡しの際にはサリーの首飾りを質入れすることになり、それがのちに盗難事件に発展し、エラリーは盗人の濡れ衣をきることになるが、ハワードもサリーも彼を見捨てる。それくらいにディードリッチの権威は高い。
 一方で、ディードリッチはハワードの身元調査を勧め、天涯の孤児と思われていたハワードに両親がいたことを知らせる。遺言状を書き換えないディードリッチにウルファートは不快感を隠さない。ハワードは豪雨の深夜に、屋敷を抜けて、両親の墓を冒涜する挙にでる。その翌日、上述の盗難と捜索があり、盗人にされたエラリーは町を出ていくことになる。その時天啓が訪れ、ディードリッチに警告を送るが、身代わりのサリーが絞殺されていた。昏睡するハワードの両手の爪からはサリーの皮膚と毛髪が発見される。

 まず、指摘しておくことはこの探偵小説に登場する家族と事件の構造は前作「フォックス家の殺人」のネガになっていること。こちらでは、強い父権が家を支配していて、その影響からのがれることができない。ハワードには出自の負い目があり、なにをしてもものにならない未熟さに絶望し、それはディードリッチとの比較でより強められる。それは貧民街育ちのサリーも、独身のウルファートも同様。仕事でも、慈善でも、プライベートでも、モラルでも彼の人格にかなうことができない。そのコンプレックスがほかの者を萎縮させ卑屈にしている。そういう家族の悲劇。
 そこにおいてエラリーはハワードの監視という探偵の仕事で来たのだが、若いふたりの秘密を聞くことによって共犯者とならざるを得ない。ビジネスではなく、信義にもとづく関係が彼の行動を制約する。なので、二回の脅迫者との接触で正体を突き止めることに失敗し、起こることが予想される犯罪を阻止することに失敗する。
 もしも、ハワードが依頼した探偵がリュウ・アーチャーであったらと妄想する。そうするとリュウは脅迫者とのコンタクトの際に、もっと注意深かっただろうし、外出のあいだに新聞社、図書館を周り、いくつかの電話をかけていたのではないか。そのとき、彼も犯罪抑止はできなかっただろうが、正しい犯人をあげていたのでは。
 とすると、エラリーは真犯人の前で「自分は破滅した」というのだが、それはおおげさではないか。理性が失敗したことでもないよな。破滅したのはエラリーの探偵方法と自尊心だけだろう。まして超法規的な解決を真犯人に求めるというのは、越権ではないか。私怨にかられて復讐することは個人に許されないというが法治国家のあり方だし。犯罪捜査と事件の関係者擁護は両立しないというわけだな。「犯罪」の解決を関係者間で行わせると、正義 利害が衝突して収拾つかなくなるし、復讐の連鎖が起きる。ささいなきっかけが大きな社会損失にならないように、犯罪捜査と刑罰は「社会」の側が行うようにした。それが近代の市民社会であって、そこでは事件の解決に探偵のような「素人」が入り込む余地はない。この小説でエラリーが苦悩するような犯罪捜査か関係者擁護かという問題は読者の物理現実では起こらないようになっている。彼の苦悩は警察権力と権威を後ろ盾にした傲慢がベースにある。なので、彼の苦悩はフィクションゆえの問題提起。(ほとんどおなじことを、ウィリアム・モール「ハマースミスのうじ虫」創元推理文庫でも書いていた。)
 まあ物理現実で関係者擁護をするのであれば、ほかの正義 利害が衝突して収拾つかなくなるし、復讐の連鎖が起きる。ささいなきっかけが大きな社会損失にならないように、と衝突して、ときに暴力をうけることを覚悟しておきなさいということになる。もちろんその覚悟をもたないのであれば、クイーン警視の言うように「利害関係に悩むくらいなら関与するな(プロにまかせておけ)@緋文字」というのがより妥当な行動規範だろう。(この失敗にこりたのか、エラリーはのちの「緋文字」事件のときには、事件関係者との接触を極力さけていたなあ。)
 かつて読んだときには、エラリーの推理によって、事件が古い書物の引用であることに驚愕したものだった。あれほど古い本が人の行動を制約し、あるいは人が本の通りに行動することに。そして、ステートの法よりもその本に書かれたモラルに違反することのほうがより大きな罪と悪であるということに。
 今回の再読では、ちょっとしらけた。しばらく前に小栗虫太郎「黒死館殺人事件」を読み、法水探偵が事件を古文書と照合し、記述に適合しているからコイツが犯人にちがいないという推理に大笑いしたものだが、法水とこのエラリーとどこが違うの?という具合。さまざまに散りばめられた意匠を読むことで、彼は隠された本を発見する。その本と現実の間にある象徴的な類似にこだわってしまった。彼は最初の解釈で失敗するのだが、それは法水と同じく、自分の解釈にこだわったゆえ。
(ここは「Yの悲劇」のネガになるね。あっちでは隠された本の意図を実行する人を捜索したが、こちらでは人の行動から隠された本を探す。隠された本が発見されたときに、事件が解決する、という具合。)
 えーと、総括すると、エラリーの構築した論理は美しい。しかし徹頭徹尾、空虚で、非現実的。世界の歪みを解釈し、虚空に伽藍を作り、美しさを仰ぎ見る快楽が探偵小説の醍醐味であるとすると、この小説は成功作。しかし、現実生活との関係をみるのであれば、トンデモの極地。俺はかつてこの小説に魅了されたのだが、今回は虚空の伽藍のあまりの空疎さにしらけてしまった。上のような「探偵の苦悩」を持ちながら、「ダブル・ダブル」「悪の起源」「盤面の敵」事件では、この小説で初めて採用した象徴・類推思考による呪術的推理をくりかえしているのだよね。探偵というより預言者だ。
 あとは、この小説のモチーフがのちの諸作に反映していることに注意。強い父権とそれに従う人々は「第八の日」に、人を支配しプランを実行する主体は「盤面の敵」「悪の起源」に、不倫する者の不安と疑惑は「緋文字」に、など。その一方で、これらのアイデアの系譜をたどることも重要。前者は「シャム双生児の謎」、後者は「日本庭園殺人事件」という具合。1948年作。


エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」→ https://amzn.to/43T90fY https://amzn.to/43QwpOZ https://amzn.to/3TN2piB https://amzn.to/4aHlE3M
エラリー・クイーン「フランス白粉の謎」→ https://amzn.to/3U8X5at https://amzn.to/3TPkMDq https://amzn.to/3VQxKUf https://amzn.to/3xugUQQ
エラリー・クイーン「オランダ靴の謎」→ https://amzn.to/3TNV6Hn https://amzn.to/4aMS3pw https://amzn.to/49ofEMk https://amzn.to/3JeorG5
エラリー・クイーン「エジプト十字架の秘密」→ https://amzn.to/3TIK9Xy https://amzn.to/3Ub9SZ5 https://amzn.to/3vJZcYX https://amzn.to/4cLJi0X
エラリー・クイーンギリシャ棺の秘密」→ https://amzn.to/43PGonM https://amzn.to/43SqWHB https://amzn.to/3xr7G7U https://amzn.to/4cQvQZO
エラリー・クイーン「Xの悲劇」→ https://amzn.to/3PQUEqH https://amzn.to/3vMnqSu https://amzn.to/4aNMF5C https://amzn.to/4aOWbFx
エラリー・クイーン「Yの悲劇」→ https://amzn.to/3PV19sv https://amzn.to/49zoy9Q https://amzn.to/4aoaSjp https://amzn.to/3vJIitw https://amzn.to/3Ja6jwP平井呈一訳)
エラリー・クイーンアメリカ銃の謎」→ https://amzn.to/3vLr66Y https://amzn.to/4aN0VMc https://amzn.to/3xugAl6 https://amzn.to/3vBZyRA
エラリー・クイーン「Zの悲劇」→ https://amzn.to/43RmGIk https://amzn.to/4ap0NT3 https://amzn.to/3TNVkOJ
エラリー・クイーン「ドルリー・レーン最後の事件」→ https://amzn.to/49wsIzp https://amzn.to/43Py6fK https://amzn.to/49wsZlV https://amzn.to/49tw7Pi
エラリー・クイーンシャム双生児の謎」→ https://amzn.to/3PUbQvf https://amzn.to/43OehW9 https://amzn.to/3TTSRCi
エラリー・クイーン「チャイナ・オレンジの謎」→ https://amzn.to/49rrp4B https://amzn.to/3PUtgYI
エラリー・クイーンエラリー・クイーンの冒険」→ https://amzn.to/3xxBLms
エラリー・クイーン「スペイン岬の謎」→ https://amzn.to/49wJVZr https://amzn.to/3UadICH https://amzn.to/3J9rTSn
エラリー・クイーン「途中の家」→ https://amzn.to/3PQULT9 https://amzn.to/3PW1R8L
エラリー・クイーン「日本庭園殺人事件」→ https://amzn.to/3TS8zxP https://amzn.to/3xqj7fX
エラリー・クイーン「悪魔の報酬」→ https://amzn.to/4aPg2ET
エラリー・クイーン「ハートの4」→ https://amzn.to/4aJiDQw
エラリー・クイーン「ドラゴンの歯」→ https://amzn.to/3TYIdui https://amzn.to/3vMClfn
エラリー・クイーン「神の灯」→ https://amzn.to/3xugIB6
エラリー・クイーン「大富豪殺人事件」→ https://amzn.to/3xBuO3r
エラリー・クイーンエラリー・クイーンの新冒険」→ https://amzn.to/3U8WpSq
エラリー・クイーン「災厄の町」→ https://amzn.to/49sunpG https://amzn.to/4aD63lU https://amzn.to/3JvSCsB
エラリー・クイーン「靴に棲む老婆」→ https://amzn.to/3xu6lx6 https://amzn.to/3TSaKkR
エラリー・クイーン「フォックス家の殺人」→ https://amzn.to/43OcPmB https://amzn.to/3Jgr1es
エラリー・クイーン「十日間の不思議」→ https://amzn.to/3TT2nWg https://amzn.to/4cOrdiG
エラリー・クイーン「九尾の猫」→ https://amzn.to/4cQ5xCT
エラリー・クイーン「ダブル・ダブル」→ https://amzn.to/4auBpeW https://amzn.to/3vIPPZG
エラリー・クイーン「悪の起源」→ https://amzn.to/3VS1aRM
エラリー・クイーン「帝王死す」→ https://amzn.to/3xB5BWS
エラリー・クイーン「犯罪カレンダー」→ https://amzn.to/3U7GkN2 https://amzn.to/4aMSAb0
エラリー・クイーン「緋文字」→ https://amzn.to/3JbwN17
エラリー・クイーン「ガラスの村」→ https://amzn.to/49yLl5A
エラリー・クイーン「クイーン警視自身の事件」→ https://amzn.to/43PyFGo
エラリー・クイーン「クイーン談話室」→ https://amzn.to/3Jclndy
エラリー・クイーン「最後の一撃」→ https://amzn.to/4cQw6YM
エラリー・クイーン「二百万ドルの死者」→ https://amzn.to/4aMSO1Q https://amzn.to/3J7HbXM
エラリー・クイーン「盤面の敵」→ https://amzn.to/3PWlFci
エラリー・クイーン「第八の日」→ https://amzn.to/3VMM3sV
エラリー・クイーン「クイーンのフルハウス」→ https://amzn.to/4aKXOEu
エラリー・クイーン「三角形の第四辺」→ https://amzn.to/3vBzk1B
エラリー・クイーン「顔」→ https://amzn.to/3J7GVIi
エラリー・クイーン「最後の女」→ https://amzn.to/4aLQhVJ https://amzn.to/4arej8S
エラリー・クイーン「心地よく秘密めいた場所」→ https://amzn.to/3xpZZ1L


<追記 2021/12/17>
 クイーンの小説を原作に、1971年にフランスで映画化されていた。
en.wikipedia.org

www.dailymotion.com

 大変申し訳ないが、配役をみたとたんに犯人がわかってしまうよ、これでは。