odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「十日間の不思議」(ハヤカワ文庫)

 ニューヨークでエラリーは戦前のパリで出会った彫刻家志望の青年ハワードと再会する。彼は記憶喪失になったので、その間に犯罪を犯してたのではないかと恐れている。エラリーの執筆がはかどらないことをきいて、仕事がてら自分を監視するように頼む。行き先は思いがけずライツヴィル。
 ハワードのいるヴァン=ホーン家は一代で町有数の企業家になったディードリッチが率いている。彼は、孤児だったサリーを養育し、28歳になったとき求婚した。そのときディードリッチは60歳になんなんとしている。また彼の弟ウルファートは、独身で僻みがしい男。サリーもハワードもウルファートも、みなディーリッチの人格に圧倒されて、敬意を払うか、敵視するしかなく、彼の前では借りてきた猫よりもおとなしい。そのような心理的な厳格さと威圧感のある家で、宝石箱の盗難事件が起きる。そこにはハワードがサリーにあてた熱烈なラブレターが4通しまわれていた。エラリーの到着直後に、サリーに脅迫電話があり、金を要求される。しかもハワードとサリーはディードリッチの目を盗んで、不倫を重ねていたのだった。エラリーは彼らの懇願を受けて、脅迫者との金の引渡しに二度も使われる。そのうえ、2回目の引渡しの際にはサリーの首飾りを質入れすることになり、それがのちに盗難事件に発展し、エラリーは盗人の濡れ衣をきることになるが、ハワードもサリーも彼を見捨てる。それくらいにディードリッチの権威は高い。
 一方で、ディードリッチはハワードの身元調査を勧め、天涯の孤児と思われていたハワードに両親がいたことを知らせる。遺言状を書き換えないディードリッチにウルファートは不快感を隠さない。ハワードは豪雨の深夜に、屋敷を抜けて、両親の墓を冒涜する挙にでる。その翌日、上述の盗難と捜索があり、盗人にされたエラリーは町を出ていくことになる。その時天啓が訪れ、ディードリッチに警告を送るが、身代わりのサリーが絞殺されていた。昏睡するハワードの両手の爪からはサリーの皮膚と毛髪が発見される。

 まず、指摘しておくことはこの探偵小説に登場する家族と事件の構造は前作「フォックス家の殺人」のネガになっていること。こちらでは、強い父権が家を支配していて、その影響からのがれることができない。ハワードには出自の負い目があり、なにをしてもものにならない未熟さに絶望し、それはディードリッチとの比較でより強められる。それは貧民街育ちのサリーも、独身のウルファートも同様。仕事でも、慈善でも、プライベートでも、モラルでも彼の人格にかなうことができない。そのコンプレックスがほかの者を萎縮させ卑屈にしている。そういう家族の悲劇。
 そこにおいてエラリーはハワードの監視という探偵の仕事で来たのだが、若いふたりの秘密を聞くことによって共犯者とならざるを得ない。ビジネスではなく、信義にもとづく関係が彼の行動を制約する。なので、二回の脅迫者との接触で正体を突き止めることに失敗し、起こることが予想される犯罪を阻止することに失敗する。
 もしも、ハワードが依頼した探偵がリュウ・アーチャーであったらと妄想する。そうするとリュウは脅迫者とのコンタクトの際に、もっと注意深かっただろうし、外出のあいだに新聞社、図書館を周り、いくつかの電話をかけていたのではないか。そのとき、彼も犯罪抑止はできなかっただろうが、正しい犯人をあげていたのでは。
 とすると、エラリーは真犯人の前で「自分は破滅した」というのだが、それはおおげさではないか。理性が失敗したことでもないよな。破滅したのはエラリーの探偵方法と自尊心だけだろう。まして超法規的な解決を真犯人に求めるというのは、越権ではないか。私怨にかられて復讐することは個人に許されないというが法治国家のあり方だし。犯罪捜査と事件の関係者擁護は両立しないというわけだな。「犯罪」の解決を関係者間で行わせると、正義が衝突して収拾つかなくなるし、復讐の連鎖が起きる。ささいなきっかけが大きな社会損失にならないように、犯罪捜査と刑罰は「社会」の側が行うようにした。それが近代の市民社会であって、そこでは事件の解決に探偵のような「素人」が入り込む余地はない。この小説でエラリーが苦悩するような犯罪捜査か関係者擁護かという問題は読者の物理現実では起こらないようになっている。彼の苦悩は警察権力と権威を後ろ盾にした傲慢がベースにある。なので、彼の苦悩はフィクションゆえの問題提起。(ほとんどおなじことを、ウィリアム・モール「ハマースミスのうじ虫」創元推理文庫でも書いていた。)
 まあ物理現実で関係者擁護をするのであれば、ほかの正義と衝突して、ときに暴力をうけることを覚悟しておきなさいということになる。もちろんその覚悟をもたないのであれば、クイーン警視の言うように「利害関係に悩むくらいなら関与するな(プロにまかせておけ)@緋文字」というのがより妥当な行動規範だろう。(この失敗にこりたのか、エラリーはのちの「緋文字」事件のときには、事件関係者との接触を極力さけていたなあ。)
 かつて読んだときには、エラリーの推理によって、事件が古い書物の引用であることに驚愕したものだった。あれほど古い本が人の行動を制約し、あるいは人が本の通りに行動することに。そして、ステートの法よりもその本に書かれたモラルに違反することのほうがより大きな罪と悪であるということに。
 今回の再読では、ちょっとしらけた。しばらく前に小栗虫太郎「黒死館殺人事件」を読み、法水探偵が事件を古文書と照合し、記述に適合しているからコイツが犯人にちがいないという推理に大笑いしたものだが、法水とこのエラリーとどこが違うの?という具合。さまざまに散りばめられた意匠を読むことで、彼は隠された本を発見する。その本と現実の間にある象徴的な類似にこだわってしまった。彼は最初の解釈で失敗するのだが、それは法水と同じく、自分の解釈にこだわったゆえ。
(ここは「Yの悲劇」のネガになるね。あっちでは隠された本の意図を実行する人を捜索したが、こちらでは人の行動から隠された本を探す。隠された本が発見されたときに、事件が解決する、という具合。)
 えーと、総括すると、エラリーの構築した論理は美しい。しかし徹頭徹尾、空虚で、非現実的。世界の歪みを解釈し、虚空に伽藍を作り、美しさを仰ぎ見る快楽が探偵小説の醍醐味であるとすると、この小説は成功作。しかし、現実生活との関係をみるのであれば、トンデモの極地。俺はかつてこの小説に魅了されたのだが、今回は虚空の伽藍のあまりの空疎さにしらけてしまった。上のような「探偵の苦悩」を持ちながら、「ダブル・ダブル」「悪の起源」「盤面の敵」事件では、この小説で初めて採用した象徴・類推思考による呪術的推理をくりかえしているのだよね。探偵というより預言者だ。
 あとは、この小説のモチーフがのちの諸作に反映していることに注意。強い父権とそれに従う人々は「第八の日」に、人を支配しプランを実行する主体は「盤面の敵」「悪の起源」に、不倫する者の不安と疑惑は「緋文字」に、など。その一方で、これらのアイデアの系譜をたどることも重要。前者は「シャム双生児の謎」、後者は「日本庭園殺人事件」という具合。1948年作。