odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

エラリー・クイーン「第八の日」(ハヤカワ文庫)

ネバダ砂漠の真ん中でエラリイが迷い込んだのは、文明社会から忘れ去られたような共同生活をおくる人々の村だった。独自の宗教と法にしたがう彼らの姿は平和そのものに見えたのだが、エラリイの目前でその「殺人」は起こったのだ……。

 不思議な味わいの探偵小説。犯人当てを目的とするならば、それほど難しくはない。容疑者は二人しかいないのだから。
 ポイントは、国民国家(ネーション=ステート)から外れた場所、すなわち読者のいる場所ではない場所でおきた事件であること。なにしろ「法」やそれを執行する行政組織がないところなのだ。住民も「法」を順守するというモラルよりも、「教師」などの共同体の倫理を順守することを優先している。法の世界では「偽証」に当たることも、倫理では許されることもありうる。法治国家の前提を崩した別の前提にたつ場所で、そこではこの国の「現実」と常識が通用しない場所で、探偵小説の前提になる合理主義や理性の勝利というのはない。そんなところにある探偵小説なのでエラリーの理性は挫折する。彼は、別の意思に敗北する。むしろエピローグにおいては、彼らの奇妙な論理の共犯になってしまう。天から降りた(故障した飛行機から脱出した)飛行士(そういえば「パイロット」の語源はピラトであるのだ!)の名前が、マニュエル(インマニュエル)という天使の名前を持っているという奇跡に関与して、宗教共同体あるいは理想的な共産主義社会を肯定することになる。
 この小説は、キリスト教の暗喩に満ちている。構成からしてそうで、全8部は日曜日に始まり、日曜日に終わる。事件は金曜日にとりあえずの解決を見出すが、先にいったようにエラリーの理性は敗北している。土曜日はたった一行、「そして、エラリーは泣いた。」だけ。彼が泣いた一日は、理性が陰にはいった、すなわち創世記において世界を作った神が休んだ一日にあたる。それ以外にも、エラリーはイエスの暗喩でもあり、彼にバプテスマを与えたヨハネでもあるし、あるいは神に打たれたペテロでもあるし。あるいは「教師」(マスター、なんだろうな)のサンフランシスコ脱出はモーゼの出エジプトでもあるだろうし、と聖書に読んだものには思い当たるところが満載。ブッキッシュな人には好奇心をそそられる小説だろう。
 とりあえず起きたことをまとめると、砂漠の果てにある宗教的な共同体にエラリーが紛れ込む。そこでは「教師」が彼らを指導し、選ばれた12人の評議会が村の政治を仕切っている。教師には跡継ぎがいて、教師と起居をともにしながら勉強している。教師は村に災厄が起こることを予期していて、エラリーの名前を誤解して彼を村に入れる(過去70年間の間、そこを訪れたひとはいない)。二日後に、雑役夫が殺される。過去犯罪の起きなかった村で起きた災厄。誰が、なぜ? 事実は教師が犯罪者であることを示していた。それは真実なのか? 外界を知らなかった村人が外界と接触するにつれて、道徳が崩壊しつつある事態も次第にあきらかになる。エラリー=探偵=理性(あるいは村の外の神ないし規範)は別のルールを持つ社会に対して何をなすことができるか。
 読後にもやもやするのは、なぜこの小説はかかれなければならなかったのか、ということ。「ガラスの村」では、形式的な民主主義が問題になっていたけれど、ここではそれは後景にしりぞき、法治の観念も退けられる。「教師」に先導(扇動と紙一重、それを区別する基準はなにかしら?)された村人の暗黙の一般意思(といいたいけれどそれは主張されたものではない)が優先される。場合によってはカルトが肯定されてしまう可能性を残している。反民主主義的な読み物なのに、また反合理主義のよみものがなぜ、理性優位の探偵小説で書かれたのか。気味がわからないので、本当に「恐ろしい」。1964年作。