odd_hatchの読書ノート

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岩井克人「資本主義を語る」(ちくま学芸文庫)

 著者は、「不均衡動学」の経済学で賞を取り、そこで有名になった。いい加減な記憶で書くと、古典派や新古典派の経済学では市場と労働は均衡する自動調節が働き、現実がそうならないのは別の問題があるからと説明されていたが、数理モデルを使って均衡することはないと証明したのだった。専門的すぎて自分にはよくわからない。この人が1980年代にニューアカデミズムの一員に加えられたのはその経済学よりも、この本のような周辺分野の議論をしていたからだろう。とくにマルクス資本論」第1巻を読むことで「貨幣論」を書いたのがインパクトになったみたい。

差異と人間1986 ・・・ 資本主義は差異を価値に変えてきた、商業資本主義では共同体の間の、産業資本主義では労働生産性と実質賃金率の、ポスト資本主義では時間の、差異を利用している。

進化論と経済学1987 ・・・ 進化論と経済学が似ているという話。面白いのはウォーレスは自然淘汰万能の単系で、ダーウィンは他の要因もあるという多系の説明というところ。そこまではOK。でも、そのあとの進化論の説明はめちゃくちゃ。まず、進化論の説明体系の変遷と生物個体群の進化をごっちゃにしている。今西進化論はでてくるわ、木村資生の中立説はネオ・ダーウィニズムに適合しないというわ、自然淘汰では説明できない現象があるというわ。natural selectionを自然淘汰と訳しているけど自然選択と訳すべきで(淘汰には価値選択の意味が含まれてしまうから)、「環境の変化が起きたとき」という限定がついた途端に中立遺伝子が継承される理由は自然選択で説明できるし。あと、人間の経済活動は主体的であるという説明があるけど、寒いから個体群が移動することと、安くて品質の良いものを買うことの間になにか差異はあるのかな。後者の行動で「主体」はあるのかしら、その主体はデカルトの「コギト」と同じであるのかな。という具合に、いちゃもんばかりをつけてしまった。

「法人」と日本資本主義1992 ・・・ 企業の考えがアメリカとこの国ではずいぶん違う。アメリカでは企業に法人格を持たせる考えはなくて、「企業」が責任をとるのではなく、個人(経営者)が責任を取るとされる。この国では企業に人格があり(それが「法人」)、責任は法人=企業がとるとされる。他にも差異がある。で、日本型資本主義もそれはそれでありうる形なので、アメリカの政策をそのままとることはない(この文章は自分の感想)。ここは「会社はこれからどうなるか」(平凡社)を読み直したほうがよいかな。

ニッポン人1990 ・・・ 西洋人から見た「ニッポン」というのは、1)オリエンタリズムの反映であって、自然を体現する本源的姿と誤った未来を先取りした姿の二面性をもっている、2)西洋の自己疎外にあたる(テーゼをもたない、西洋のアンチテーゼ)、なので共訳不可能性があるのではないかと憶測される、3)西洋ではマシンは魂を持たないので恐れられる(ロボットは人間に協力する奴隷との由。なるほどおれが映画「アイ・ロボット」に感じた怒りはここにあったのか)のが、ニッポンはマシンと共存する異質な存在。面白いのは西洋はセルフイメージを「人間」とするが、この国では「日本人」をセルフイメージにしている、あたり。西洋の「人間」の典型はロビンソン・クルーソー。努力と勤勉で個人で自立している経済人。共同体の帰属意識はそれほど強くない。西洋の保守文化人は構造主義を嫌うが、それは構造主義は「人間」を否定しているから。いっぽう、ニッポン人は構造主義に近いので、その種の問題は起きない。こんな具合に西洋とニッポンは違うので、まずは知的なところからでもコミュニケーションをしましょうという提言。ここらへんの指摘がおもしろかった。

マルクスの逆説(今村仁司)1991 ・・・ 「貨幣論」の連載終了後の対談で、かつソ連邦崩壊時。マルクスの逆説は、貨幣なき社会を構想していたが貨幣抜きの経済はないことを証明したこと、商品と貨幣が互いに互いを支えあって価値を持っているという宙ぶらりん状態では労働価値説と価値形態論は互いに相補的であるのに労働価値説を優先したことなど。まあ、岩井がみたような貨幣論マルクスが見抜けなかったということかしら。あと、ソ連社会主義は「純粋社会主義」で、市場のない状態を計画経済に移行したとしたら人間のコミュニケーションを監視把握しないと成り立たないことを実現した、スターリンスターリニズム官僚の弊害ではなく、論理の必然的帰結である、ということ。

貨幣・言語・数(柄谷行人)1993 ・・・ 表題の共通性と資本主義について。岩井克人貨幣論」と柄谷行人「探求II」を前提にしているので、読んでいないとよくわからない。(追記。このあとに「貨幣論」を読んだ。そのときにはこの本が手元になかったので、内容をチェックできず。)

「百姓」の経済学(網野善彦)1993 ・・・ この国の歴史の農本主義、水田中心主義批判。内容は網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)に準じる。対談なので、古代から江戸まで話題が幅広い。

帰って来た人間(水村美苗)1993 ・・・ 漱石は小説で文学者批判を書いた、漱石は(洋行して)「帰ってきた人間」だった、という話。二人はどうやら東大教養学部の同級生らしい。40代半ばでそれなりの功を持ち、かつ過去を知りあっているので、よくある対談のような話のかみ合わなさとか対決している感じとかはない。インテリの穏やかな雰囲気。面白かったのは、アメリカのアカデミズム。評価は数値でもって量られ、ノーベル賞を取るくらいの学者でも土日返上の勉強と大量の論文生産をしなければならない。そこはヨーロッパと違うこと。指揮者だとトスカニーニやセルなど目に見える仕事を熱心にする人はポストを持ち、クレンペラーのように教養で音楽をやる趣味人(とみられる人)は冷遇されたのを思い出した。
<追記>
 ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」(ハヤカワポケットミステリ)に書かれた1950年代アメリカの大学はもっと優雅でのんびりしたものだった。大学の教授が資産をすでに持っているものがなるのではなく、貧乏人も機会を得れば誰でもなれるものになったという職業の変化であり、評価のために成果主義能力主義を徹底したためだろう。


 著者は資本主義とこの国の資本主義と株式会社に関する本を書きたいといっている。その関心にあるものがここにいろいろな形(評論だったりインタビューだったり対談だったり)でおさめられている。ここでは、それらの関心と探求のいったんが書かれているにすぎないので、たとえば株式会社についてはほかの本を読んだほうがよさそう。
 後、この文章の背景にはこの国のバブル経済崩壊とソ連東欧の社会主義国家崩壊のふたつの出来事がある。資本主義と社会主義のふたつにそれぞれ異なる問題があった。それから四半世紀がたっても、いずれの問題も解決できているようではなくて、なかなかに困ってしまう。ここでは岩井と柄谷がマルクス主義にとらわれないでテキストとしてのマルクスを読める時期になったと主張した。さて、そういう読み方ができた人たちはいるのかしらねえ。個人的な関心でマルクスをいくつか読んだけど、自分の乏しい頭では可能性が見えてこない。それも次第に確信めいてくる。