2060年、ロベール・オルザックは時間溶解剤を飲んだ。この薬は、現実から意識が遊離して<溶時界><不安定界>なる時空体に入ることになる。そこでは継時的な時間はなく、タイムスリップに似た感覚をもつことができる。初出の1973年には、現実と夢の境をまたぐのに、LSDとかナントカの薬剤のトリップを使わないといけない。そんな面倒な仕掛けを詳述しないとならなかった(解説によると、PKD「ユービック」1969の影響下にあるという)。1980年代半ばからのサイバーパンクはこの手続きを一気に解消することができたのだった。
オルザックの使命は、1966年のフランス・パリにいたダニエル・ディエルサンという男に乗り移って、1966年当時の調査をすることにある。このころから時間溶解の研究が進んでいて、2060年の世界を規定しているらしい。ディエルサンとオルザックのふたつの意識を持つこの肉体は、奇妙なことにすでに死んでいるらしいし、同じことを繰り返す。すなわち、深夜に勤務先の工場に行き工場長に面会を求める。守衛は男の身分証明書を確認する。その間にエレンという女性からの手紙を読む。守衛は入館を拒否する。ライバルの男が現れ、君は解雇されたと告げ、無理やり門の中に入る。そこにライトを消した車が突っ込んできて、車が大破する。男は意識が飛んで、ふたたび深夜工場に向かう。身分証明書の中身は毎回変わり、エレンの手紙の内容も異なり(そこには状況説明や次の行動指示があったりする)、勤務先では職を得ていたり解雇されていたり、突っ込んでくる車の数もアットランダムで、という具合。この同じシチュエーションでありながら細部の異なる出来事が5回くらい繰り返される。その間に、ディエルサンは以前飲んだ「メブシタル」という薬に思いをはせ、それが時間融解の効果を持っているのではないかと考える。守衛はときに電話がかかっているとディエルサンに告げ、それに出ると、相手はオルザックであったり、HKHと名乗る組織のものであったり。君は重要な使命を持っているのだから(決してその内容はあきらかにされないが)このまま行動を続けろと励まされたり、あるいは君は<溶時界>に囚われて脱出不可能なのだからそのままおとなしくしていることだと脅されたり。そのうえディエルサンは自分が死んでいるという証拠をもっていたり、指の欠けた粗暴な船乗りレナート・リッチの外見と意識にすり替わっていたり、自分が自分であることにすっかり疑いをもち、そのうえ自分が今いる世界はいったいどこに所属しているのかわからなくなる。なので、オルザックやHKHの励ましや脅しをすっかり無視して、同じ出来事の繰り返し(ループ)から脱出しようと試みる。そうすると、どうやら1960年代に始まった時間溶解の研究は1992年に破局的な事態を迎え、政府に追い詰められた工業帝国HKHの首謀者4人は時間溶解剤を服用して、<溶時界>を作り出し、そこに閉じこもり「現実」に攻撃を加えるようになったという陰謀が浮かび上がる。そんなことは関係ないとばかりに、ディエルサンは手紙にしか現れない「美人」エレンを、船乗りレナートは最初の妻モニカを、「現実」で、<溶時界>で追い求める。その自己回復の探索の行方は?
同じ出来事のループという点で「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」と「攻殻機動隊2 イノセンス」を思い出しましたよ。ラストシーンではアレックス・プロヤスの「ダーク・シティ」を。あるいは未来の人類が歴史の修復のために過去に介入するというのでジェームズ・キャメロン「ターミネーター」も。現実と夢の境界が消滅、ループした「現実」からの脱出、自己同一性の不確かさと自己回復のための聖杯探究というテーマを先取りした作品、といえる。とはいえ、エンターテイメント要素が全くないので、上記のファンが頑張って探して読むほどのものではない。
作者ミシェル・ジュリはフランスのSF作家。解説によるとヴェルヌ以降、フランスのSF創作はほとんどめぼしいものがなくて(翻訳作品ばかりが流行ったとの由)、1970年代になってようやくでてきた作家のひとりとのこと。バラードやディックの強い影響というのはこの作品からよくわかる。そこにフランス風の(といっていいのかなあ)思想がだらだらと加わる。翻訳も本作と「熱い太陽、深海魚」がサンリオSF文庫で出版されただけ。後者は未入手。「活字中毒養成ギブス」角川文庫1988年で浅田彰と高橋源一郎が高評価を下してから古書価も高い。