会社で接待担当の雷門亮介は独自の接待理論をもち、きちんとしたデータベースをもっていた。そのために会社の売上の3分の1は彼の接待で生み出していた。社長秘書と情事をしたその場所に、出版社勤務の秘書の兄を会う。彼はベストセラーを産む凄腕ディレクター。亮介に本を書けと薦める。亮介は異能の評論家がたくさんいることを知り、彼らを組織化していく。18人のメンバーがそろったとき、梁山泊というプロダクションとアジトをつくり、異能評論家をマスコミ(主にテレビ)に売り込む。彼らの弁舌とトリビアは視聴者にブームを起こし、一方で「良識」家から大反発を食う。自殺評論家と墜落評論家が口を滑らして、犯罪行為を行ったことを告白したとき、梁山泊プロダクションは警察の包囲にあった。18人は人質をとって、アジトに籠城する。マスコミと共犯関係のできたプロダクションの籠城戦は1か月を超えた……。
1971-72年に連載された長編小説。
前半は異能の評論家が集まるまで。映画「七人の侍」の第1部ですな。この評論家がまた意表をついていて、およそ常識の範疇にはいらない。彼らの評論分野を無理やり分類すれば
ビジネス系: 接待、パーティ
犯罪系: 横領、火事、自殺、墜落、盗聴、出歯亀
バッドテイスト: ドラッグ、口臭、吐瀉物、痰壺、性病、皮膚病
まだほかにいたかもしれない。連載の時代は、権力と反権力、カルチャーとカウンターカルチャーのせめぎあいがあったのだが、共通しているのは真面目ということ。真摯であること、建前をうちだすこと、良識を示すこと、こういう真面目であるのが当時の動きを示していた人たちの気分(しかし差別やハラスメントには鈍感だった。あと他者への暴力も容認)。そのような真面目さに対するカウンターが、たとえば著者(一緒に読んだ赤瀬川源平「櫻画報大全」も同じ意図をもっていそう)。真面目さが打ち出す名目をあえて挑発し、彼らが隠そうとするものを明るみに出し、それらをパロディにして権威を無効にし、全体としてユーモアを漂わせていて、しかし攻撃的であろうとする。その手段が上記の犯罪すれすれやバッドテイスト(悪趣味)に他ならない。この小説には、梁山泊プロダクションの異能評論家に目くじらを立てるものとして主婦連、PTA、俗悪番組追放婦人同盟などが出てくる。なるほど、このような「主婦」に代表される良識は小説の描写と同じような反応を示したのだった。ドリフターズ「8時だよ!全員集合」のスラップスティック、永井豪「ハレンチ学園」の性表現は「俗悪」として攻撃されていた(しかし子供は「俗悪」とされたほうを好む)。
亮介は自分らのような異能の評論家の存在の意味をこんな風に説明する。すなわち、文明には本質がない(そう思われているのは幻想だ)、末端のみがある(根、幹、枝のような中心とそこから離れる細部という構造を否定)。末端は別の末端とつながっている。ドーナツみたいな構造を見ればよい。中心は空虚で、拡大拡張を続けるドーナツの表面が文明の総体)。彼ら異能の評論家は末端の拡大侵食に応じて現れる存在。消されても生き返る。こういう文明論がこの時代に出ていたのが素晴らしい。この時代はドゥルーズ=ガタリのリゾームも、トリックスターも紹介されていなかったので、知っていれば書き方を変えたかもしれない。まあ、海外の動向とは無関係にここまで考えていたのはみごと。
後半は梁山泊ビルにおける籠城戦。奇しくも連載時にあさま山荘事件があって、その影響もあるかとおもったが、すでに学生運動は大学をロックアウトし、機動隊が排除する攻防戦が種々あったのだった。屋上から糞尿を散布するというのも蜂の巣城や三里塚での強制代執行で弱者の反抗手段として採用されていたのだった。現実が先行していたわけで、小説はパッチワークになっている。
ブッキッシュな話題にすると、籠城戦が千日手になるのは自作の「原始共産制」「毟りあい」。籠城戦の最後はほぼ同時代の大江健三郎「洪水はわが魂に及び」のラストシーンに照応する。前半の異能者が集まるまでは、多数の狂人を紹介しながら話を進める「虚航船団」第1部と同じ構成。すでに死んだ登場人物が生の意味を会話するというのは「朝のガスパール」。他にの多数の小説の反響が聞こえるだろう。
ひとつ作者が読み違えたのは、マスコミの扱い。ここでは政治権力に対峙して大衆社会をいかようにも動かすことのできる権力として表れる。小説中では警察や機動隊、自衛隊もマスコミを操作できず、彼らの対応に苦慮する(そのかわりにマスコミの無責任さも批判されるのだが)。21世紀になると、そのようなマスコミはこの国からは消えて、政治権力のお先棒を担ぐ走狗になりはてた。まあ、経営危機が権力に容喙される理由だろうが、敗戦後のマスコミの矜持はどこにいったか?