odd_hatchの読書ノート

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アガサ・クリスティ「死への旅」(ハヤカワ文庫)

 邦題は内容に比べて邦題は大げさで、原題は「Destination Unknown」とクレジットされていて「先行き不明」のほうがストーリーにあっているとおもっていた。調べたらアメリカでのタイトルが「So Many Steps to Death」だったのね。アメリカのタイトルの軽薄さを踏襲しつつ、邦題はもうすこし重々しくした。
 子供を失って離婚した中年入り口の女性。自殺するつもりで、モロッコの旅に出る。途中、飛行機のトラブルで予定していた便に乗れなかった。その便は途中で墜落(そういう事故は当時多発していた。クラシック音楽関係ではジネット・ヌブーとジャック・ティボーとグィド・カンテッリが飛行機事故で死亡)。ホテルにようやく到着したとき、彼女の部屋をイギリスの諜報部員が訪れる。墜落していた便にのっていた別の女性の名前で旅行を継続してほしい。なんとなれば、彼女の夫は有名な核物理学者で、最近失踪している。諜報部としては組織に誘拐されたか亡命したのではないかと疑っている。我が国の頭脳の消失を何としても食い止めたい。
 当時は米ソ冷戦で、原爆実験を繰り返し水爆の開発が進められていた。アメリカで「ソ連スパイ」が見つかて裁判にもなっている(E・L・ドクトロウ「ダニエル書」サンリオSF文庫が当時の雰囲気を描いている)。ソ連崩壊と東欧革命以後では陳腐なストーリーであるが、1954年当時ではリアルな設定だった。
 その女性、ヒラリーはオリーブを名乗って旅を続ける。途中でおせっかいな婦人が呼びかけ、国籍の異なるメンバーによるツアーになった。マラケシュに行く途中、またしても飛行機トラブル。砂漠かどこかに着陸。迎えのバスに乗り換えると、飛行機の周辺に死体が置かれ、爆発炎上してしまった。死体は彼らの身代わり。彼らは存在しないものとして扱われることになる。
 ヒラリーはだれが同志でだれが敵かもわからないし、自分の行く先もわからない旅をする。これはのちのマープルもので繰り返される(「カリブ海の秘密」「バートラムホテルにて」「復讐の女神」)。女性の一人旅はたぶん当時では珍しい。なので、アルレー「わらの女」、マクロイ「ひとりで歩く女」などの女性一人旅ものが書かれたのだ。これはそういう系譜の一冊。
 彼ら一行はさらに移動を繰り返し、もはや場所の見当もつかない砂漠で、病院を装った研究コロニーに到着する。そこにオリーブの夫トーマスがいた。夫はオリーブが他人であるのを見破るをと思ったのに、ヒラリーをオリーブと呼び、演技を続けろとささやく。夫への不信と任務終了の安心のアンビヴァレンツな心情。このあと強い監視と隔離にある研究コロニーで軟禁状態になる。まるでクイーン「帝王死す」ロシュワルド「レベル・セブン」のようなシェルターものになった(もう少し前の時代の捕虜収容所ものともいえる)。この軟禁状態に適応できるものもいれば、脱出を願うものもいる。ヒラリーはとりあえずの任務を達成したので、後者を願う。そのころようやくイギリスの諜報部はヒラリーの所在を突き止め、奪還をめざす。
 ポアロやマープルらの探偵小説と異なる書き方になっているのは、おしゃべりがひかえられ心理描写がふえていること。自殺を願うくらいに鬱屈して内省的なヒラリーをリアルにするためにそうなったのだろう。ポアロの文化ギャップやマープルのおせっかいなどのユーモアがここにはほとんどなくて、全体にシリアス。クリスティの小説ではとても珍しい。そのうえ、邦訳ではロス・マクドナルドの訳者である高橋豊が担当しているので、クリスティの作品にしてはめずらしく目の積んだ、きめ細かい文章を読むことになる。 それでいて、上にまとめたような当時としても荒唐無稽な舞台。冒険スパイ小説を読んでいるのが、研究コロニーにはいってから沈鬱なディストピア小説になるというストーリーのぎくしゃくさ。あまりクリスティらしくないのだ。なお、この研究コロニーはクイーンの前掲書の孤島に似ているので、あわせて読んでおこう。
 とはいえ、クリスティ女史は探偵小説作家であることを忘れず、最後にもうひとひねり。オリーブが亡くなる際に伝えた言葉(「雪」「ボリスは危険」)はスパイの冒険中にすっかり忘れてしまうのだが、ちゃんと思い出し驚愕する次第になる。読んでいるときに見たビリー・ワイルダー「情婦(検察側の証人)」のようなどんでん返しを用意しているところが達者。ただし、探偵小説的なフェアネスには欠けますが。