漱石は1916年に「明暗」を書いたが、未完で亡くなった。70年の時を経て、水村美苗が続きを書いて完結させた(単行本は1990年)。あとがきによると、いろいろ批判があったらしい。漱石らしくないとか漱石は偉大だとか漱石はこのような結末を予定していなかったとか。評者が自分なりの漱石像をもっていてそれを尺度にするから、他人が結末をつけるのにいちゃもんをつけてしまう(あわせてそれだけの漱石像を持っている俺様えらいといいたがる)。どうにも貧しいな。ディケンズの「エドウィン・ドルードの謎」が未完だったので、さまざまな作家が続きを書いて、それぞれ楽しむというくらいの余裕と作品愛を持てばよいのに。漱石の名を出さずに楽しめばよいものを。
作者・水村は
「『明暗』はなぜ清子が津田を捨てたかという冒頭の問いをめぐる小説である(P380)」
と考えるので、「続」では清子が主人公になる。すなわち、漱石作ではそれまでほとんど登場しなかった清子を追った津田が会うところで中断したが、水村は温泉場に逗留する安永という夫婦(しかしそうはみえないと清子はいう)といっしょに遊んだり行楽に出かけて、津田と清子の時間が長く続くようにする。安永が帰ったあと、津田は清子を引き留める。聞きたいことがあるというのに、津田は言い出せずに(言いたいことが何かをわからずに)ぐずぐずする。
清子の造形がよい。彼女は本書の中で唯一自己主張ができる女性(いや、男性を含めてもそうか。男どもは夫や実業家などの属性にあわせた類型を演じているだけなのだ)。漱石版「明暗」のテーマが金と結婚であるとき、清子は結婚する前の恋愛を考えている。想像のうちにある恋愛ではなくて、目前の男をどう思うか。そうして津田との縁組が進んでいて、しかし関との話も出てきたときに、清子は津田を
「最後のところで信用できない」
と判断する。この言葉がでてくるところがすごい。たわいない会話や一緒に歩く散歩の観察などから、そういう判断をするところが。結婚した津田が追いかけてくるのをみて、
「真面目でない」
と言い放つところも。読者は漱石版「明暗」で津田がマチズモとパターナリズムの塊であり、女性を対等に扱わないのを知っているからこの指摘は当たっていると思えるのだが、清子は津田の強権ぶりをみていない(許嫁として丁寧に扱うので)のに、見て取れてしまう。こういう女性は漱石の小説では見られない。にもかかわらず、漱石のいくつかの断片から、みごとな女性の姿を創り出した。
(いや、それだけでなく、個人的な述懐をすれば、とても似た言葉を言われてフラれた経験をもつ俺は、清子の指摘が棘のように厳しく突き刺さるのだ。そのときは言葉の意味が分からなかったが、本書を読んでよくわかったし、自分を恥じることになった。作者の水村さんには反省の機会をもらえて感謝します。)
一方、東京に残っている延は吉川夫人と小林の使嗾で、津田のあとを追う。豪雨と増水で温泉に行くのに遅れた延は、清子が津田に決定的な言葉を発したシーンに遭遇して、二人の関係(とくに津田の真意)を悟る。そこから延は口を利かなくなる。津田を追いかけてきた秀(津田の妹)と小林による暴露(吉川夫人による二人を別れさせる策)を聞くも、津田は動揺するが延は反応しない。穿って考えれば、それまで誰か(養い親の岡本や夫の津田)を基準に物事を考えていたのが、ここではじめて延は個として考えるようになった。疎外されていた女性が本来的自己に目覚めた、などと大仰にいってもいいかもしれない。それよりも、茫然自失したまま滝にいった延が
「遥か上に続く自然から見れば、(お延の自然は)無に等しい程小さな自然であった(P374)」
というところに注目。このやっかいな小説の最後に、延にこういう自己回復が訪れたことがうれしい。
(ブッキッシュに言えば、このシーンから志賀直哉「暗夜行路」、トルストイ「アンナ・カレーニナ」、トーマス・マン「魔の山」などの自然観照からの自己回復の物語を思い出すことができる。漱石も自然を書くことがあるが、人間とのかかわりのない客体であるか、人間の心理を投影した理解可能で擬人的なものであるか。水村が描いたような人間と合一する、抱擁する自然ではない。水村の手による延の感じた自然は内外の作家の自然に近しいが、漱石の自然とは異なると思う。)
漱石の小説では、男のあり方が詳しくリアルだった(津田、小林、岡本など)のに、女はこしらえ物の感があった。それが水村の手になると、清子(「続」の主人公になった)、延、吉川夫人、秀などの女性が生気あふれるリアルな造形になる。一方で、津田や小林、安永らの男性はマリオネットのような機械じみた反応を示すにとどめる。ここは作者のジェンダーの違いにあるともいえるし、漱石の正編と水村の続編では主題が微妙に変わったためだともいえる。漱石の正編の主題は金と結婚であったのが、水村の続編では恋愛となった。続編では津田夫婦の手元不如意や借金が語られることはなく、秀や継子の結婚話は後景に退く、吉川夫人による幾組かの夫婦への介入も大きな問題にはならない。あくまで、清子の決心(心変わり)の謎を解くことに注目し、津田と延が彼女のまわりをぐるぐると回る。そのように人物の配置や意味が変わっている。それは漱石の意図したところからは離れているように思えるが、他者の目と筆による続編は漱石の目と筆からは隠された/見えないようになっているテーマを引き出している。
くわえて、漱石の文体はモノクロームの精緻な版画であったのが、水村の文体になるとフルカラーの鮮やかな油絵のように小説世界が変わる。ここも魅力的。
漱石による「明暗」正編には通読する意欲を失わせるところが多数あったが(描写が些末になるとか、心理描写がくどいとか、筋が通らないとか、津田や小林などの男の言動に腹が立つとか)、水村の続編でこれらの不満が解消されて大いに楽しめました。アクションも増えて(安永らとの小旅行、豪雨をついた延の温泉場行き、清子・津田・延の三人が出会う劇的シーン、秀と小林の闖入による混乱など)、漱石による正編の伏線を回収。これらの技術にも感嘆しました。
漱石の小説を全部再読して、結局どれにも感心せず、たいした作品を書いていないと思っていたのだが、スピンアウトの作品で優れたものに出会えてよかった。
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著者が漱石を語った対談があった。
「帰って来た人間(水村美苗)」1993(岩井克人「資本主義を語る」(ちくま学芸文庫)所収)