ロシア生まれの両親をもつフランスの哲学者ジャンケレヴィッチ。主著はたぶん巨大な「死」(みすず書房)かな。一度所有したけど、どうしても読めそうになかったので、手放した。
さてこちらは1968年初出のドビュッシー論。これは小さいけれども浩瀚な書物で、およそドビュッシーに関してはほとんどのアイデアがここに集約されているのではないかしら。初読のときにあまりに感動して、それから他のドビュッシー論はまるで手にしていないくらい。この文体を真似して、ドビュッシーのことを書いてみたことがあるが、まるで貧しいものになってしまった。
アイデアが奔放に語られ、対象とする作品を万華鏡のように変えながら、ドビュッシーのことを書いているので、要約すると哲学者の思考の重要なところはすり抜けてしまうように思う。同じように要約すると、その思考がすり抜ける音楽論を書いた人にアドルノがいるけど、ジャンケレヴィッチとは違う。アドルノはどこかにあるかもしれない中心・核心の周囲をさまようのだが、ジャンケレヴィッチはそのような中心・核心が存在すると思っていない。何かが現れたとしても、書きつけたとたんに溶解し、消滅してしまう。その痕跡というかきらめきの記憶を保持するだけ。
副題に「生と死の音楽」とあり、彼の主著が「死」であるとなると、この哲学者の生と死の語りに耳を傾けておこう。
「人間の生は、先立つ永遠と後続の永遠という静寂の中から立ち現れる。ちょうどこの世が、無限空間という空隙の中から浮かび上がるように。生を取り巻く二つの無は、両端の沈黙の間に生の持続をとじ込めることによって、生の実性を高め、悲壮なものにする。沈黙という大海にのみ込まれるいかなる生もはかない。(P186)」
この生の見方には、悲嘆も希望もないし、意味付けもない。まあ、無を無として受け入れよ、くらいの逍遥とした気分。そのような生に最も近いのが音楽。そのあたりの言語にしにくいことを語ろうとして、同じことを繰り返す。
面白いのは、この評論には<私>がいないこと。ジャンケレヴィッチ自身のドビュッシーとの邂逅とか、ドビュッシー演奏の経験とかそのような個人的な体験がない。同じように、ドビュッシー自身の生年没年は書かれず、彼が何をしたかのエピソードもないし、同時代ないし後世の人々のドビュッシー賛も引用されない。そのような歴史や「人間」は音楽とは無関係だから。だから徹底して作品とそこに書かれた言葉についてしか語らない。
その語りもまた自由奔放に。たとえば「妖精」をある曲にみつけると、管弦楽曲、ピアノ曲、歌曲、オペラの妖精をたちどころに並べ上げる。あるいは「水」、あるいは「虫」(そういえばドビュッシーの同時代にはファーブルとルナールがいた、こういう歴史性は著者の嫌うものではあるのだが、書き留めておきたくて)、あるいは・・・ という具合。そうやって列挙された作品から、また連想の翼を広げていく。
そうすると、ドビュッシーは多数の矛盾や対立を同時に表現できる稀有な芸術家になる。
「永遠と非在、出現と消滅、実性と虚性が一致するのは一瞬のことである。ドビュッシーの音楽が無限小の芸術であるからだ(P159)」
この対立や矛盾はもっと書き出すことができる。上昇と下降、主体と客体、希望と幻滅、夜と正午、嵐と西風、子供と老人。そのような対立が対立と思わないようなところにドビュッシーの音楽がある、らしい。ただ、この「ある」もまたはかないらしいのだ。ただ、生と死は著者にとっては対立や矛盾ではないというのは書き留めておかないと。「死」がないとか、生が甘美であるとか、そういうドイツ的な観念ではとらえてはならないよ、出現と消滅は同時に起きて、その差異がないのだよ、みたいな感じかな。それこそ音楽がそうであるように。
はなはだとりとめない感想で、どこまでは著者の思考でどこが自分の妄想か判別つかなくなったので、ここまで。とりあえずドビュッシーの音楽を聴きなおすことにするか。
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〈参考エントリー〉
2014/03/01 ウラジミール・ジャンケレヴィッチ「夜の音楽」(シンフォニア)
2017/03/28 ウラジミール・ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社) 1961年