odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

笠井潔「薔薇の女」(角川文庫) 貨幣経済と資本主義が世界を覆いつくし蕩尽ができないとき、過剰な性によるエネルギーは他者への危害に転換する。

火曜日の深更、独り暮らしの娘を絞殺し屍体の一部を持ち去る。現場には赤い薔薇と血の署名――映画女優を夢みるシルヴィーを皮切りに、連続切断魔の蛮行がパリ市街を席捲する。酷似した犯行状況にひきかえ、被害者間に接点を見出しかねて行き詰まる捜査当局……。事件のキーワードを提示する矢吹駆の現象学的推理が冴える、シリーズ第3弾!
薔薇の女 - 笠井潔|東京創元社


 事件は1975年から先に起きているのだが、あわせて20世紀半ばの歴史を確認することも行っている。すなわち「バイバイ、エンジェル」ではスペイン市民戦争であり、「アポカリプス殺人事件」ではフランスの対独抵抗運動であり、「薔薇の女」ではアルジェリア戦争ポーランドの反ソ運動。共通点は、権力に対する抵抗運動であり、権力側の大量殺戮やテロが行われたということ。さらに、運動に参加するしないにかかわらず生活や思想を全面的に見直さなければならない「試練」「苦行」の様相を呈していたこと。1975年の事件の現場はもちろん当時20-50代の現職の人たちが中心にいたわけであるが、背後にはそれより30年ほど前の事件や事態に直面した人たちが存在し、彼らの意思や選択が1975年の事件に深く影響している。これは事件にかかわる家族だけではなく、事件にかかわったものたち(矢吹やナディアをふくめて)を変容させる契機になっている。親の世代の出来事が現在の事件に影響しているというのは珍しくもない趣向ではあるが、かかわり方の深さとか広がりとかで、この連作は際立っていると思う。そういう作品はまず目につかないので、貴重だ。まあ、これらの作品だけで近代史を覚えるというのは間違っているが。
 さて、この作ではバタイユの「普遍経済学」と「エロティシズム」が俎上にあげられる。あわせて、カール・ポランニーの「一般経済学」やモースの「贈与論」も参照しているように思う。その議論によると、地上には太陽からエネルギーが無償で与えられているが、生命が消費する以上のエネルギーが投与されている。そのため生命は生産過剰になり、富が蓄積されていく。もちろん富は高エントロピーであるから放置しておくと、拡散し、それが悪影響を生命に及ぼす。そのため定期的に富を消費、むしろ破壊することが要請される。最高の破壊は個体の死であるが、人間は、というか社会化され文明をもつ人類はこれをポトラッチや無償贈与として一気に放散、破壊、遺棄することを行ってきた。作中ではネイティブ・アメリカンのポトラッチが紹介されているが、西洋社会のカーニバルもそういうものだ。さて、貨幣経済と資本主義が世界を覆いつくすようになると、このような蕩尽、破壊ができなくなる。資本主義は富の蓄積を目的にしているから。そこで近代の国民国家は富の消費、破壊のために二つの方法をとってきた。すなわち、国家・民族・階級の格差(それに反抗する革命運動による破壊)と戦争。まあ、この装置は不完全で不安定であり、核兵器をもつようになったとき、最後のポトラッチないし富の破壊になるのは全面核戦争であろう。さらに、このような過剰のエネルギーの放散、消費は個人にとっても必要である。多くは性行為において行われる。性は小さな死であるから。まあこんな感じ。性によるエネルギーの消費がうまくいかないとき、人は変態性欲とかサイコパスになるとか、そんな議論もあった。自分は「マダム・エトワルダ」と「エロスの涙」と「非-知」しか読んでなくて、それもまるで理解できていないから、「薔薇の女」経由のまとめがバタイユの思想にどれほどあっているかはよくわからない。同時期に書かれている「ヴァンパイア戦争」でも似たような性に関する議論が登場する。性行為中の小さな死を体験することは日常の檻とか重力の桎梏から逃れるチャンスであり、その至高体験を経験することが自己革命になるのである。ただ性の至高体験は一瞬であり、そこから得られる知覚はほとんどないから、至高体験を持続するには霊性を高め、宗教の法悦を得る苦行が必要なのだ、ということになるのかしら。作中にはイスラム神秘思想家に誘われアルジェリアの砂漠に向かう青年が登場する。矢吹が「彼と話をしたかった」とつぶやくとき、胸中にあるのはこのようなところかしら。
 ミステリの中心は、1955年と1975年におきた連続猟奇殺人事件。日常人には無差別と思われる連続殺人が、実は狂気の論理の中では整合的でるとあるという趣向。ここでは対独協力をしてパリ解放後に映画界を追放された女優ドミニク・フランス(リュシエンヌ・レヴィ)の映画がテレビ放送されるごとに、映画の登場人物に似た若い女性が殺害されるということになる。あわせて、死体の一部を使って肉人形を作るという、映像にしたら正視することのできない猟奇行為にまでおよぶ。犯人当てよりも「なぜ」という動機の解明のほうが主眼にあるだろう。そこのところに、上記のような戦中戦後史をからめているのがみごと。
 まあ、この作品に辛い点がつくのは、思想談義が犯行の主体と結びついていないところかな。「犯人当て」を目的にその動機の解明の手がかりであるだろうとジョルジェ・ルノワールと矢吹の長い話を読むと、「ではみなさん」のあとではぐらかされたと思うだろうな。この作品には(というか矢吹駆シリーズは)、物語の現在の事件の解明という物語だけがあるのではなく、その数十年前の物語、思想格闘の物語、<赤い死>との格闘、ナディアの片思いなど複数の物語があって、それも読まないといけないのだな。「薔薇の女」では現在の事件よりも過去の事件の謎ときのほうがおもしろかった。

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