odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-1

 2002年初出。前作「哲学者の密室」の発表から10年。でも、小説内の時間は半年もたっていない1975年。重要なモチーフにHIV後天性免疫不全症候群があり、アメリカ西海岸のゲイコミュニティで蔓延し始めたという記述がある。そういう報告が実際に出たのは1981年、この国への紹介が1983年、この国の最初の患者報告が1985年と、小説内の記述とはちょっとずれがある。
 前史になるのが、ザイールの片田舎にある医療所。ここでアブバジ病ととりあえず名づけられた原因不明の病気の研究者が紹介される。
 さて、それから3年(?)、アブバジ病の研究者で現在は罹患して治療中のフランソワをナディアは見舞う。フランソワは瀕死の状況で、研究ノートをギリシャに旅行中のマドック博士に渡すように依頼される。その前日にはマドック博士不在中に研究室が放火され資料が消失する事件が起きていた。
 アテネではマドック博士の代理人クレタ島のわきにある牛角島に行くように依頼する。島には血液製剤を主力商品にしているバイオクロス社の社長の別荘がある。この社長アリグザンダーはギリシャの女優イレーネ・ベロヤノスと結婚して巨大なミノア文明風の別荘を持っていた。かれらにも不幸な前史があるが、ここでは飛ばしておく(読むときにはノートすることを忘れずに)。アテネでナディアは駆と別れ、単身で島の入り口の村に着く。深夜に、断崖から転落した旅行者がいて、同時にいたと思われる名無しの男が行方不明に。ようやく島に行くと、ナディアとは別に世界各地から10人が招待されていた。招待の理由は決して明かしてはならないとホストの代理人に念押しされる。豪華な晩餐ののち、招待客の一人デリンジャーが三階から転落。管理人は嵐の中クルーザを出して転覆して水死、その妻も波にのまれる。以下、3日間の間に都合6人が殺されるという事件が起きた。念の云ったことに、船はなく、冬の海は泳ぎ渡るには荒れすぎ、電話線は切られ、強い風は狼煙をすぐに吹き飛ばしてしまう。
 招待者を登場順に並べると
 ナディア・モガール(フランス人、学生、20代)
②ピエール・マドック(フランス人、医師、50代)
 コンスタン・ジュール(フランス人、哲学者、20代)
④ソーニャ・ラーソン(スウェーデン人、医師、30代)
③アーノルド・ダグラス(アメリカ人、地方政治家、30代)
①サイモン・デリンジャーアメリカ人、作家、40代)
 ミシェル・ダジール(フランス人、哲学者、50代)
 トラン・バン・ドン(ベトナム人、ダジールの秘書、20代)
⑤ウィリアム・ロビンソン(アメリカ人、ミノア文明研究家、40代)
 ハワード・ポッツ(アメリカ人、保険会社の調査員、50代)
 名前の前に数字をつけた人たちが死者で、数字が死亡順。まだまだ死者はでるのだが、不可解なのは、死者はいずれも楡かヒヤシンスの写真を持ち、事件の起こるごとに屋敷の人牛像に血が塗られること。③と④の事件は監視者のいる荒地で起こり、死者の倒れ方が説明つかず、⑤の事件は建物の別棟で起きた密室と死体消失。「閉ざされた山荘」の例にもれず、彼らはグループを作るが、疑心暗鬼で分裂し、ヒステリーを起こして部屋に閉じこもるものがいれば、単独行動で姿を隠すものもいる。仲間の中に犯人がいるという恐怖は民主主義を解体するのだね。
 「閉ざされた山荘」テーマで探偵小説愛好家がいることから、過去の名作にも言及される。英国女性作家の代表作がそれで、事件や犯人の工作はこれに則っている。それに加えて、複数のギリシャ神話がこの事件にもされる。オイディプスにオッデュッセイアにダイダロス。建物の持ち主に限らず、哲学者に古代文明研究家がギリシャ神話の薀蓄を傾ける。そして事件との象徴的な関係を見出そうとする。ここは、自分にはなかなか手ごわくて、というか退屈で、ときにページをすっ飛ばしたのは告白せざるを得まい。被害者に楡やヒヤシンスの写真をもたせたのはギリシャ神話に由来するというのは、作家は面白がるのだろうが、読者には迂遠すぎるなあ。このダイイングメッセージはいただけない。
 あと、今回は遠因が20世紀前半の社会や組織の愚行に由来しなかったのも、興味を持続しなかった原因のひとつ。なるほどエイズに模せられたレトロウィルス原因の病気は、登場人物によって21世紀の災厄、国家を解体する外部の象徴とされる。あいにく発表のときには、完治は無理だが、発症を遅延させ症状を緩和するさまざまな治療法ができていて、パンデミックの恐れがとりあえず先進国では無くなっていたのだった。1980年代のエイズのさまざまな言説はその後の研究で外れてしまった。加えて、当時は説得力のあったエイズ生物兵器説がトンデモであることもあきらかになった。そこが作家の誤算になるのかな。(パンデミックエイズではなく、インフルエンザの方で憂慮されていて、人類的な危機が克服されたわけではないことを追記。念のため。)
(続く)

  

2013/09/30 笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-2
2013/10/01 笠井潔「オイディプス症候群」(光文社)-3