odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

大江健三郎「河馬に噛まれる」(文芸春秋社)-1 背景にあるのは1971-72年の連合赤軍事件と浅間山荘事件。作家の「連合赤軍事件」批判は中途半端で、この種の権威主義組織の害悪を克服する手段を見出すものではない。

 背景にあるのは1971-72年の連合赤軍事件と浅間山荘事件。同じ党派が起こした一連の事件。詳細をここで書くよりも、別の資料にあたってほしい。
 パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)は、事件当時この国にいなかった人(文化人類学の研究者)がインタビューなどを行った記録。この国の人が事件を語ると、感情が優先するかセンセーショナリズムになるかで冷静になれないので、重要。
 この国のだとたとえば、
大泉康雄「「あさま山荘」篭城」(祥伝社文庫) ・・・ 籠城した党派員を友人にもつ人の記録
佐々淳行連合赤軍あさま山荘」事件」(文春文庫) ・・・ 機動隊指揮者の記録
久能靖「浅間山荘事件の真実」(河出文庫) ・・・ 実況報道したマスコミの記録
高木彬光神曲地獄編」(角川文庫) ・・・ 事件直後のノンフィクション
などを読んだ。あと事件の首謀者たちの手記もたくさんある。ただ、なにしろ、リンチ殺人の描写が凄惨なので、なかなか読む気になれないけど。
 事件の注目点は、この党派が山岳にこもって軍事訓練を行ううち、指導者の命令でもって党に批判的な人物を殺害する決定をしたことと、その下部構成員が唯々諾々と(葛藤はあったはにしても)殺人を実行したということ。この点の非日常性というか異常な行為が理解しがたいものであった。それを実行した人たちは知的能力があり十分な判断力を持っていた。サイコパスのような異常な精神や妄想をもっているわけではなかった。それなのになぜ殺人を行えたのか、というのが重い問いになっている。なぜ回避できなかったのか、殺人者にも被害者にも自分がなるのではないか、そういう切実な問い。
 このような事件は20世紀のこの国に数回おこっていて、1)軍隊や警察による虐殺やリンチ、2)左翼党派の内ゲバ、3)新興宗教団体による殺人、などが典型。いずれでも同じ問いを繰りかえす。知的能力もあり、判断力ももっているはずの普通の人がなぜあのような集団に入り、殺人その他の犯罪を実行したのか、それに抵抗し計画をやめることはできなかったのか。それは、一過性のことであるのか、それとも人類の弱点であり、克服しがたいことであるのか。
(殺人までにはいかなくとも、人権侵害が組織内部で日常的に行われるということまで拡大すれば、ブラック企業や公教育の教室、村落や団地の小集団のなかでも起きていること。俺はそれを受けた経験があるから、この問題は切実。)
 作家は新しい小説の構想を練っていたら、ほとんど同じ経緯の事件が起きたという(それが「洪水はわが魂に及び」)。それはこの短編集に書かれたことなので、本当かどうかは不明。まあフィクショナルな真実ということにして、作家がこの問題にとらわれていることを了解すればよい。たぶんむごたらしい死を死ぬということが彼のオブセッションになっていて、核による死(一瞬の蒸発であったり、火災によるものであったり、放射線障害による長年の苦痛の末であったり)と共通性をもっていたと推測する。作家は、死ぬ肉体と魂の問題に固執する。むごたらしい死にあっても、それが浄化されて組織や共同体の再生を期待できるものになりはしないか、むごたらしい死に意味を付与して魂の浄化に役立てられないかと問う。それは「僕はネオ・プラトニスト」という作家の言明からすると、筋道はたっている。
 ただ、俺の問題とはすれ違う。自分は外部からみるむごたらしい死を苦しむことと殺人を実行すること、および組織の理念に逆らえず、どころかむしろ理念に合わない自分の肉体を嫌悪するという倒錯に興味があり、なぜ逃げないのかなぜ止めないのかという心理を問題にする(ああ、文章に書くとなんて貧しくなるのだ)。作家のアプローチだと、組織や共同体成員の倒錯がスルーされてしまう。それはいいのかなあ。「芽むしり仔撃ち」だと少年院の子供たちのユートピアを村人たちが破壊していて、村人たちのエゴイスティックな振る舞いに批判的だったけど、そういうモチーフが1980年代の小説になるとほぼ失せている(せいぜい「同時代ゲーム」その他の国家には批判的にはなるけど)。たぶん、事件のステークホルダーが加害者と被害者、その家族、組織のシンパ、そのくらいに制限されているせいではないかな。そのくらいの狭い範囲での救済をいきなり人類(これもまあ概念だなあ)に拡大しようとする。そうすると、もっと広い範囲のステークホルダー(友人や知り合いに加害者や被害者がいた、組織の加入を勧誘されたことがあるが断った、街頭のおかしなパフォーマンスをみた、彼らのパンフや宣伝を読んだことがある、映像や音声で彼らの活動を知りシンパシーを抱いた、など)の問題がスルーされてしまう。こういう思考とその進め方が理解しがたいのだよな。
 それでいて、作者は組織の内実に詳しいわけではない。なので、「死に先だつ苦痛について」のタケチャンの秘密組織がやりたいことがまるでリアリティに乏しい。指導者の理念とか欲望があいまいだし、彼のシンパがハイジャックに賛同する心の進み行きが全く描かれないし、査問と殺人の決定にいたるプロセスも簡単に触れるだけ。指導者の決定を受け入れたり、「自己批判」の末に肉体消去を願うような心性にいたるまでの過程は描かれない。指導者の決定に批判は行われず、多くの登場人物は指導者の決定には修正や改善を加えることによって、ユートピアを成立する可能性があったのではないかと同情をみせてしまう。のちの「宙返り」では宗教団体の教祖の孤独と懊悩が書かれたけど、組織と構成員の病理はスルーされていたのを思いだす。指導者M・Tや教祖の「救済」思想が善意から発し、その思想とか人格の純粋だったから可能性があるとみなすのは危険でしょう。組織のパフォーマンスや成果で判断しないと。
 自分としては作家の「連合赤軍事件」批判は中途半端で、この種の権威主義組織の害悪を克服する手段を見出すものではないとみなす。なぜ中途半端かを追求してもしかたないし、憶測に憶測を重ねるしかないから止める。