odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

大江健三郎「方法を読む」(講談社) 「小説の方法」を用いた文芸時評。情的・情緒的な戦後民主主義や戦後文学を否定する批判に対抗する。

 「小説の方法」を書いて、理論編を書いた。実作に応用したのが「同時代ゲーム」。ここでは、ほかの作家の小説を彼の見つけた方法論を用いて、文芸時評を行う。1978年から79年にかけて朝日新聞の時評欄に24回連載した。あとがきによると、文芸時評を再開する予定はなく、これきりだとのこと。実際に、その後新聞の時評欄に長期連載のページを持つことはなかったと思う。

 さて、時評なので、その月ないし前後に発表、出版されたこの国の作家がこの国の言葉で書かれたものを対象にする。話のまくらに中年米文学や他国の日系の書き手のものを取り上げたりもするけれど。1回の時評で2つの作品を取り上げるから、48人の作家の48の作品になる。そうすると、当時存命の戦後文学の書き手である長老のものから、デビューしたばかりの若い作家まで幅広い書き手が俎上にのぼる。タイトルは以下の通り。
移民の見る日本人/フォークロアトリックスター/徴発する文学、世界モデルとしての文学/古典を読み直す、中心と周縁/短縮の仕組み/統一性(ユニテ)を持つ多様な文体/若い作家の異化/8月、原爆と朝鮮/戦後詩/芥川賞/他者としての異性/モラリスト天皇制/歴史、現代を書く/グロテスクリアリズム/同時代を観察・認識する私小説/日本語の源泉を求める/戯曲の仕掛け/私小説の仕掛け/人間をトータルにつかまえるという課題/在日朝鮮人の日本語文学/戦後文学者の死(中野重治福永武彦)/しゃべりことばの多様性/昭和10年代からの思考/抵抗感のない国民文学と異化する文学
 これらのワードは「小説の方法」に頻出する言葉であるので、それぞれの意味するところはそちらのエントリーを参考に。
 時評の内容をなぞるかわりに(なにしろ35年前の作品だから2016年には入手困難なものが多数あるので)、「小説の方法」に即した方法論や方法意識をざっくりとあげてみる。
 感心したのは、作家は批評の言語にも優れていて、ここに収録された時評という短文がそれぞれの小説の優れた批評になっていること。今の新聞やネットに登場する作家や批評家のかく書評とは雲泥の差のでき。今の新聞やネットの書評から本を購入する意欲を持つようなことはめったにないのだが、この時評を読むといずれも読みたくなる。読者にそういう心をもたさたということで、これは優れた批評文であると思う。(個人的には、自分の書いたものが恥ずかしくて、隠したくなった。)
 さて、この時評を引き受けた背景には、「小説の方法」を実地に使用することにあるが、もうひとつは、このころから戦後文学にたいする感情的・情緒的な批判が広まってきたことにある。江藤淳や清水幾多郎などが戦後民主主義や戦後文学を否定するような物言いを始めていた。その文章が明確さを持たず情緒に訴えるもので、主張も個別の小説を検証したうえでの結論になっていなかった。そうではないというのが作家の主張。戦後文学は豊穣であった。読み物として面白いだけでなく、世界や同時代を認識するモデルを提示してきたし、日常の機械的な見方を活性化する「異化」効果ををもたらした。これは作家に同意。小田実が言うように、戦後文学にしてなお達成されていないところはあるにしても、この国の文学の歴史で最も豊饒な作品を生み出した時期だし、文学運動(のひとつ)だったと思う。というのは最近(1990年以後)の文学をまず読まない自分の言いわけ。
 ただひっかかったのは、作家の主張ではなくて、引用された部分。それによると、竹内好は中国の文学と比較してこの国の文学は国民的感情を代表する自分のコトバをもっていないという。さて、自分のコトバを持っているかどうかはそれぞれの作家の問題として考えるとして、文学が国民的感情を代表するものであるべきかという批判は妥当であるだろうか。俺は十分に考えたことはないのでいいかげんな気分で書くのだが、国民的感情を持ち出すのは筋がよくない考え方だと思う。