著者はデビュー時から知っていてしばらく追いかけていた。デビュー前に全共闘運動に参加して逮捕されたり、町工場で騒音の中で働いていたりしたことを知った。でも、たとえばテレビ時評でタレントの分析をしたり、ファッションショーの批評をしたり、「追憶の1989年」(角川文庫)で東欧の革命と競馬が同列に並んでいたりしたのをみて、離れた(とても忙しい企業に転職して時間がなくなったのもあるけど)。サブカル好きの腰の軽いインテリだよなあ、と思いこんだわけだ。
なので、2011年から朝日新聞の論壇時評に登場したも、それほど期待もしなかったし、熱心に読むこともなかった。でも、2015年春ころから読むとあれっと思うようになり、気になる話題を振ってくるのにも気づいた。そこで同年5月に4年分の時評を集めた新書を読み返す。そうしたら四半世紀前とは違って見えてびっくりした。
そうしてまとめて読むと、これは「民主主義」を探す著者のクエストの経過報告なのだとわかる。2011年3月11日の東日本大震災と同日の福島第一原発事故の翌月から連載は開始される。そのときに著者のみならず読者のみたのは、社会のシステムの混乱と意味の通らない言葉の噴出だった。何かしなければならない、社会にはおかしいところがある、とは思っていても、ではどうすればいいのか、どうやって伝えればいいのかほとんどの人が分からない。それは著者もおなじであったとみえて、まず彼はリアルで起きていること(のうち重要に見えること)を摘出する。適当に拾ってみると、オキュパイ・ウォールストリート、南三陸、在特会、尖閣諸島、ブラック企業、生活保護バッシング、慰安婦問題、「忘れられた皇軍」、台湾のひまわり革命、「21世紀の資本論」など。こうやって並べると、本書中で指摘されている通り、「日本人は忘れやすい」のを痛感。自分も興味はあったけど、深く追求しないので忘れたことがありました。
そうしたうえで、この国には、1)高齢化社会、独居老人、認知症、過疎村、2)結婚や子育てできない世代、ワーキングプア、3)アルバイトに拘束される大学生、シングルマザー、4)さまざまなマイノリティ差別、などが浮かび上がる。個々に問題を解決しようとしても、それぞれからみあっていてほどきにくいうえ、個人では対応しきれないほどの大きさをもっている。しかも行政や立法がうまく機能できない(高度経済成長期にはあらは目立たなかったのに、経済停滞や危機に直面するととたんにうまくいかなくなる)。ではどういう道があるかが著者の探索だ。彼には、さまざまな民主主義の使い手と彼らの言葉が見つかる。たとえば、以下のようなもの。
「自分たちの権利を守るために人任せにせず責任を負う(P101)」
「歴史を学ばなければならないのは、ぼくたちが不完全な、『善きものと悪しきもの』が入り混じった人間だから(P146)」
「自分を責めてはならない。明るく、前向きな気持ちでいることだけが、この状況から抜け出る力を与えてくれるのである(P173)」
「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム(P196)」
これは著者の言葉ではなく、彼の探索で見つけた言葉。ここには、希望と明るさがある。
そうすると、次は民主主義をどう運用するかが、どうもこの国では民主主義の使い方を習熟していようで、どうすればよいのか見えてこない。著者の探索もこの本では2015年3月まで。おそらく、この本で萌芽的にみえた民主主義は、若者たちとのコラボレーションの先にありそうだ。そのレポートが、 高橋源一郎×SEALDs「民主主義ってなんだ?」(河出書房新社)。2015年の春から秋まで、国会正門前で行われた学生と若者たちの抗議行動。そこにある可能性を見つけようという記録。あわせて読むこと。