odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

伊藤計劃「虐殺器官」(ハヤカワ文庫)

 アメリカの情報軍特殊検索群i分遣隊所属のクラヴィス・シェパードは、軍の指令を受けてテロリストや敵対国家の要人を暗殺する職務についている。ロシアと隣接する中央アジアで、プラハで、ヴィクトリア湖周辺で、彼はさまざまな作戦にかかわってきた。その背後には、謎のアメリカ人ジョン・ポールがいる。彼の現れるところでは、安定した政権が突然排外主義やレイシズムに変貌し、大量虐殺を行うようになっていたのだ。彼はなぜ、そこにいるのか。

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 表層上は、シェパードが経験するさまざまな特殊任務を描く冒険アクション。夜間にステルス機で低く潜入し、ポッドで降下した後、1時間以内に目的を補足して、逮捕拘留するか暗殺するか。途中、ジョン・ポールと関係していたらしいプラハの女性に接触し、情報を取得する任務がある。任務が終えると、カウンセリングを受け、アパートでくつろぐ(カウチポテトになる)。こういう特殊任務戦闘員はときにマンガやアニメに描かれたなあ(すぐに思い出せるのは、たがみよしひさ「GRAY」と押井守AVALON」くらいだけど)。彼らの生活や任務にかぎらず、ここにはさまざまなサブカルや教養が雑多に詰め込まれている。そのマニアぶりはみごとというしかなく、サンプリングされた先行作品にはおれのような浅いオタクでもわかるものと分からないものがあって、ときにくやしい。もちろん、このような引用やパスティーシュやパロディは説明を省略しても意味を伝えられる情報を高圧縮する技法であるし、引用先のモチーフや状況をこの小説に投影する技法でもある。なので、このたかだか400ページの小説にはたくさんの情報が圧縮されている。それを解凍して、意味を検索し、リレーションをかけるのは読者の側でやらなければならない。それはとても魅力的で面白い作業。なので、この小説は時間をおいて複数回読むべき。
 さてガンで夭逝した作家の第1作。すでに大評判になり、さまざまな評があふれているから、詳しい解読をしたい人は別に参照されたい。ここではそれらの評言はいっさい無視して気付いたことを箇条書きに。
ウェルズ「宇宙戦争」は20世紀の総力戦と絶滅収容所を先取りしたが、この「虐殺器官」ではテロリズムと大量虐殺を主題にする。あいにく先取りというには現実のほうが先に突っ走ってしまった。ただ、おれのぼんくらな頭は1990年以降の「戦争」が変化していたことに気づいていなかったので、小説の指摘は重大だった。なるほど総力戦は前衛と後衛を無意味にしたが、テロリズムでは隣人が敵か味方かわからず、むしろ隣人や友人同士で殺し合いをしかねない。絶滅収容所ではテクノロジーの管理システムが効率的・集約的な破壊を行ったのであるが、大量虐殺ではテクノロジーの監視システムが個別の殺戮を瞬時に行うのか。総力戦と絶滅収容所では「国家」が強大になり「国家」意思が殺戮を実行したのであるが、テロリズムと大量虐殺では「国家」の力はむしろ弱まり、弱小集団の「狂気」が推進し、その狂気が感染することでエスカレートするのであるか。なので、21世紀の風景は、16世紀フランスでの宗教対立と王権の弱体化の時代を思い出す。
・そうすると「正義」をどう実現するか、ないし複数ある「正義」の対立をどうやって調停するかという問題が政治にあらわれる。この小説で21世紀頭の国際情勢を反映しているように、このような正義の実現や調停の国際機関は無力になっている。あっても巨大「国家」の思惑で振り回されて、各国・機関が同意できるような「正義」をまとめることができない。となると、それは市民や個人にも同じことが言えて、共同体やコミューンが同じ地域にいる人を「正義」でまとめることができない。そのような寛容や融和の試みはテロリズムの格好の対象になり、最初の虐殺被害者になる。
・テロルへの傾倒はさまざまな解釈が可能で、ポール・ポースト「戦争の経済学」(バジリコ)パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギー」(岩波現代文庫)などにある。笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)はあんまりお勧めしないけど。それらの分析が経済学と心理学を基調にしているが、小説家の想像力では「ことば」にあるとされる。ここではことばはコミュニケーションツールであり、人間の生得的で外部に構成された「器官」であるとされる。そのような即物的な解釈の下では「ことば」が人間の外部に取り出せる「もの」として自由に改変したり、遺伝子操作みたいに形質を移植したりもできる。異様なタイトルと思われた「虐殺器官」も、作家の想像力の下ではじつに理由と意味のある含蓄深いメッセージになっているのだ。
(嫌味な指摘をすれば、それは作者の創意ではなくて、作中の引用にあるようにモンティ・パイソンの「殺人ジョーク」だし、川又千秋「幻詩狩り」(中公文庫)だし、笠井潔「梟の巨なる黄昏」(講談社文庫)であるし。)
・20世紀の高度経済成長時代には、死の形態にはそれほど変異がなかった。しかし、21世紀のテクノロジーテロリズムと大量虐殺の時代では死の変異は膨大。作中に書かれただけでも、病死・事故死・自殺・戦死・暗殺・虐殺・拷問死・尊厳死安楽死・中絶などなど。そのいずれにおいても死と生の境はあいまい。老衰による自然死を死ななくなった現在では、生き残った誰かがその人に死を与えることを決断し宣告することになる。「お前は死んでいる」といわれなければ人は死ねないし、「お前は死んでいる」といった人は象徴的・間接的に「殺人者」となる。生きて伸びることそれ自体が人を殺人者にしていく。それはこれからの社会において受け入れられることになのか。
・それでいて国家や共同体はインサイダーを「殺すな」と命じる。そしてテロリストを「殺してもいい」と宣言する。この矛盾した命令に人は従うことができるのか。小説にあるように、殺人者であることに罪悪感を感じないで済むように心理学をベースにしたカウンセリングを施さないといけないのか。あるいは「1984年」のように国家がプロパガンダとテクノロジーで洗脳しないといけないのか。
・小説はシェパードの現実体験と、夢?の死者の国とが描かれる。現実においてシェパードは即物的で感情の起伏を示さない。諦めや悔悟の雰囲気が漂う。一方、死者の国ではロマンティックな風景があり感情が揺れ動きどこか希望があるように思える。生が苦痛や後悔をもたらし否定しなければならないもので、死は甘美で懐かしく肯定されるものになる。この倒錯。でも現在刑務所に収監されている無差別殺人者はこの倒錯を生きているし、それを現実化しようとしている。僕ら読者は、この倒錯を批判する立場を持てるだろうか。
 という具合に、どこまでも小説から派生する「問題」を考え続けることができる。再読すれば、別の視点から見た駄文を垂れ流すことができるだろう。そのような小説を「傑作」と称賛する以外のなにをすればよい。2007年初出。