odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

伊藤計劃「ハーモニー」(ハヤカワ文庫)

 この世界は核による「大災禍(メイルストロム)」によって破壊されてしまった。というのは、1970年代からよくあるエコロジーSFの定番の設定。ちょっとちがうのは、このあと少数になった人類は安定して調和ある社会を作り上げた。成人になるとWatchMeなるアプリを肉体にインストールして、常時モニタリングされ、「異常」になるとナノマシンが発動してさっさとなおしてしまう。なので病気になることはない。そのうえ、ほかのアプリもインストールされているので、身体に良くないもの(アルコール、カフェインその他さまざま)を摂取するときには警告が発せられる。そういう親切さはほかにもあって、身体のエクササイズから余暇の過ごし方まで、相手のプロフィールから自分と物の位置情報までが、ツールを使うことなくすぐさま入手できるようになっている。この社会の生産や労働は語られていないので推測するしかないが、まあビッグデータとAIが生産を管理して人間が労働するような余地はないようになっているのだろう。社会は安定し、調和して、変化をもたらさない。そこで「ハーモニー」が生じるという次第。
 でも、未来を苦慮することのない社会であっても、異端児は生まれるのであって、高校生の「わたし」は御冷ミァハ(未来社会なので読者の物理現実のルールは適用されない)にひかれる。おとなに、社会の一員になりたくないというミァハの思想に共鳴して、彼女の作ったクスリを飲んで、WatchMeのインストールを拒否する。それは社会的な「自死」を選択するものである。しかし失敗し、ミァハは死に、グループは解体させられる。

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 それから13年。「わたし」は世界保健機構の監察官の一員となり、上のような社会ではない辺境で疾病監視をしている。久しぶりに帰国したとき、高校生のグループの一人に会う。レストランで食事をするなか、彼女は突然自殺する(その社会ではありえないこと)。そしてWatchMeのセキュリティホールを使って侵入したプログラムで、自殺するように命じたとテログループが発表。それを逃れるためには他人を殺さなければならない。パニックになった人々は自殺か殺人を開始する。
 「わたし」はWatchMeを開発した父を持ち、テログループの思想がミァハのものであることを知り、ミァハの接触を試みる。しかし、様々な組織、グループが「わたし」の行く先々で邪魔をする。「わたし」は社会をすくうことができるか・・・
 これまで人類は、個体としての人間を精神と肉体に分離して語ってきた。ここでは、身体がその唯物性によって完璧にコントールできるように、精神もまた外部からコントロールできるものであるとする。選択をする主体も選択肢は外部から与えられていて自由はないし、感情も肉体の反応に付随して発生するもので肉体の反応も外部刺激によるコントロールをうけている。という具合に唯物論が貫徹している社会なのだ。その根底にあるのは、作中にあるように善とは持続であるという考え。持続し変化を起こさないのが共同体が存続する条件になり、共同体が幸福を与え続ければ、共同体は持続し、それ自身が善になる(作中では「社会」の持続となっているが、他者や異物の存在しない均等な考えが周知されているところは共同体がふさわしいので、そのように書き換える)。WatchMeは身体内の異常を発見し、ナノマシンが治療にあたるのであるが、そのシステムは共同体にも配置されていて、「わたし」やミァハのような異端児も監視下におかれ、共同体の持続のための治療ナノマシンとされているのだ。
 この小説では二つの物語、「わたし」の過去の清算と、「わたし」の現在の冒険が同時進行しているが、このふたつは同じ物語。「わたし」の過去で清算されて完了した物語を、現在の「わたし」はそのままなぞり反復する。キング「It」、笠井潔「黄昏の館」などがそうだった。「わたし」の冒険も、個人的自我や主体の選択したものではなく、共同体の持続を目的とするしかけなのであり、WatchMeのアルゴリズムで生じる例外処理に過ぎない。主体や個人が存在しないという著者の作品モチーフが繰り返される。
(この小説の物語の分析をこれ以上する気になれないのは、人間は外部からコントロール可能、外部侵入によって人間を操れるという発想が、押井守機動警察パトレイバー」「攻殻機動隊」の映画をそのまま継承していて、あまり「発見」を見いだせなかったのが理由。また、完璧な社会になじめず反抗する未成年が社会の「真実」を解き明かしていくという物語も、クラーク「都市と星」、竹宮惠子「地球(テラ)へ」でおなじみ。なぜ、主人公が社会になじめない異端者ではなく、異端者の同調者なのかと最初の方で思っていたので、ラストシーンがあらかじめ読めてしまったのもある。)
 たぶん俺より若い人たち(この小説の読者の大多数はそうだろう)は、小説の監視社会やディストピアのアイデアやガジェットにひかれるだろう。なるほど半世紀以上前の「1984年」「すばらしい新世界」のアイデアを上回る21世紀風のディストピアが現前している。それが21世紀10年代の日本社会にきわめてよく似ていることにも先見性を見出すにちがいない。アイデアやガジェットを枚挙したりアクチュアリティを指摘したりする作業は彼らに任せるとして、俺が思うのは監視社会やディストピアに対抗、レジストする視点の欠如。ディストピアの精緻さよりも、ディストピアにいながらそれが天国であると思う大衆・民衆・個々人(なるものはいないとされるのだが)が「ある」ことに驚き、恐怖を感じる。
 2008年発表の著者第二長編。