写真家・土門拳の仕事のなかから、子供を撮影したものを収録。1935年ころから1960年ころまで。
「下町のこどもたち」は1950年代前半の江東区や佃島、月島の子供たちを映す。「日本のこどもたち」は主に戦前に撮影した写真。カメラをもって下町にいくと、子供たちは好奇心いっぱいで、カメラマンの周りに集まる。撮影しないでおしゃべりしたり、カメラをいじらせたり。しばらくすると飽きてしまって、遊びにもどる。そこで撮影を開始。帰るときにはモデル代代わりにキャラメルを配る。こういうこどもらのふるまいは、羽仁進「教室の子供たち」1955年の撮影のときもおなじだったといっていたな。あるいは、村などでドキュメンタリを取ったり、民俗学や人類学の調査をするときでも。調査者、撮影者と調査されるもの、撮影されるものの信頼関係ができないと、調査や撮影を始めてはいけないし、公開する時にも確認をとらないといけない。プロでも、ここがおろそかになる例があるとのことなので、心しておきたい。マイノリティに寄り添っていると思い込んでいると、「善意」でマイノリティを困らせる(ときにシェルターやコミュニティを破壊することもある)ので、重要。
さて、この写真を見て、昭和20年代後半のこどもたちを類として何かいうことはやらない。昔はよかった、何もないけど幸せだった、自然と一体だった(江東区の写真には林も小川もたんぼもでてこない)とか、そういうノスタルジーに回収される言説がでてきそうだから。代わりに、この子供らのその後を見ておこう。7-8年のあとには中学校を卒業して「金の卵」として集団就職し、その5年後には大学で「闘争」を行い、1970年代の企業戦士として働き、80年代の「金曜日の妻たちへ」のような郊外の住宅の住人になり、バブル経済で土地やマンションを転がし、1990年代の不況で職を失い、2000年代のゼロ年代に大量退職した世代。総称すると「団塊の世代」。戦後の日本の栄光と没落を象徴する世代。この人たちが得たものと、失ったものをリストアップすると、戦後日本が見えてくる。
後半は、「筑豊のこどもたち」1959年(撮影は1954年らしい)。敗戦の時、日本には生産設備と資源がなかった。戦争で大量に浪費され、海上封鎖で日本に運ばれず、空襲で破壊されたため。インフレが激しく、税収が少ない。ドッジ・ラインによる緊縮経済政策のため、投資がままならない。そこで考えられたのは、石炭の生産→電力の生産→鋼材の生産→重工業化という傾斜生産方式(考えたのはマルクス経済学者)。なので、石炭の採掘が各地で行われた。しかし採掘量の激減と安価な石油の輸入で、石炭産業はいっきに衰退する。そのときに、閉山が相次ぎ、炭鉱労働者が大量失業した。炭鉱周辺には労働者の集まる町ができていた(東宝特撮映画「空の大怪獣ラドン」1956年に当時の炭鉱町が登場)が、いっきに貧困の町と化す。この写真集には筑豊の炭鉱のできごとが収録されているが、同じことは数年後に全国の炭鉱で起きる(1970年代前半まであったと記憶)。
生活保護や再就職あっせんなどの社会保障政策がほとんどなかったものだから、労働者とその家族は放り出された。棄民だな。ことに、写真にでてくるような、稼ぎ手のいない母子家庭や孤児たちはひどい目にあった。小学生が家事をにない、食事の手配をし、そのために学校に行けない。行っても昼の弁当がないので、雑誌で顔を隠す。すさまじい貧困が放置されていた。
この写真集が21世紀になって急速にリアリティをもっているのは、このような貧困が日本に定着しつつあること。そのような貧困と飢餓が社会から見えにくくなっているのが、今日の問題。「筑豊のこどもたち」のような貧困者だけがいる街がなくなり、みかけはきれいな家に住むこぎれいな服を着た人たちが貧困や飢餓にある。隣人がみえなくなったあと、飢餓で孤独死していることすらある。見えない貧困。
1960年代の高度経済成長があり、世界第2位のGDPを達成した豊かな国が、このような貧しい人々を抱えている。「筑豊のこどもたち」に映された問題を解決できなかったのが、日本という国。苦い、苦しい。
(と嘆いているだけでは自分らの国に殺されるのであって、ちゃんと生きらせろと国と政府に命じることが必要。)
2013/12/24 四方田犬彦「月島物語」(集英社文庫)