odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

桜井哲夫「思想としての60年代」(講談社) 自身の20代がほぼ1960年代と重なる著者によるこの10年間の鳥瞰したエッセイ。

自身の20代がほぼ1960年代と重なる著者によるこの10年間の鳥瞰。個人的体験を交えていて、それほど「科学的」ではなく、むしろその時代の気分を味わうためのものかしら。初出は1988年。

青春の伝説―ポール・ニザン『アデン・アラビア』 ・・・ 「ぼくは二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにもいわせない」という一節が高名になりすぎたサルトルの畏友にして、共産主義者。翻訳が大量に出たのはまさに60年代。当時の若者が共感し、ここに反体制とか抵抗などの思想的根拠(というより気分だな)をえたと告白している。自分は真崎守のマンガで知った。晶文社版は絶版で、別の訳者による河出書房版は入手可能。
清潔な儀式―東京オリンピック ・・・ 東京オリンピックの清潔運動。ファシズムににた大衆動員。またオリンピックは「異人殺し」を象徴的に行うことによって村に幸福をもたらすという神話作用でもあった。日本全体を「身内」にし、マッカーサー元帥という「父」に晴れの姿を見せる場でもあった。
日本SFの誕生―批判的科学の構想力 ・・・ 小松左京星新一筒井康隆らによってSFがはやった。当時の文学者、批評家はSFを文学と思っていなかった。
「魔球」のゆくえ―野球のイデオロギー批判のために ・・・ 魔球の出るマンガは1961年のちばてつや「ちかいの魔球」から。これは剣豪小説と同じで、野球は「道」であり、選手はホームランや完封勝利を量産する高効率な生産機械でもあった。これを覆したのは80年代のあだち充「タッチ」。この見方は夏目房之介の考えと同じだが、どっちが早かった? やはりこちらか?
 夏目房之介「消えた魔球―熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか」は1991年。
丸山真男と『日本の思想』―決断と「古層」 ・・・ 丸山真男小林秀雄とからめて論ずる。自分は彼らに興味はないので、重要なのは日本的とされる事象は室町以後、とくに徳川期に定まったもの、ひとつのイデオロギーになったのは明治期になってから、という指摘のほう。
〈逃亡者〉の肖像―テレビのなかの〈アメリカ〉 ・・・ 1960年代前半にアメリカのドラマがこの国で流行した。その理由を「逃亡者」で考えてみよう。この文章だと、「逃亡者」の理由はわかるが、ほかのドラマの理由はわからない。そうすると、アメリカの大量消費生活、都会のスマートな一人暮らしや核家族への憧れにあったという従来の説明の範疇に収まるのかな。
高橋和巳と『わが解体』―メランコリーのかなたへ ・・・ 高橋和巳の破滅愛、挫折愛の元になるのは、「母」を裏切ったという思い、おふくろの血肉を食うことで現在の繁栄を達成しているという痛苦。このあたりにありそう。あと、メランコリーの作家はついに破滅=「自死」に至るものであるが(他者の存在を思想に取り込めないから)、高橋和己は全共闘と対峙することで克服したのではないか。すぐに死んでしまったが。2010年現在では高橋は読まれない呪われた作家になってしまったかな。
ヨッパライはどこへ行った―フォーク・クルセダーズの軌跡 ・・・ 日本のフォークソング史を「フォークル」を通して描く。われわれの歌からわたしの歌へ、というのがこの時代の流れかな。後者の典型が吉田拓郎荒井由美。ここには「イムジン川」のことは書かれていない。
大島渚との遭遇―論難と挑発の果てに ・・・ 60年代の日本を拒否する映画と70年代「愛のコリーダ」の日本的なものの差異について。ようやくほぼ全映画がDVD化。TVドラマやドキュメンタリーはどうなった? 自分も「日本の夜と霧」に衝撃を受けた。
〈幻想〉としての吉本隆明―『共同幻想論』再読 ・・・ 60年代に思想界のスターだった吉本隆明の「共同幻想論」も今読むとずさんな論理。この人は高度化した社会資本主義のイデオローグ。彼の批判の矛先はアジア的後進性、農耕的共同社会の貧困さ。それが高度消費社会の実現で達成され、何もないことがあきらかに。あと、この人は先人に喧嘩を売ることで自分の権威を高めてきた。まあ自分も「共同幻想論」はよくわからなかったし、誰かの言にあった「共同幻想」はこの国の成り立ちを説明できるかもしれないが、他の国には妥当しないというのがあたっているとおもう。
『「甘え」の構造』の構造―日本人論を解体する ・・・ 60年代のベストセラー「甘えの構造」の批判。もともとはこの国の母性となだらかな関係性の批判として使った「甘え」の概念が批判をうけているうちに、厳密さを失い、天皇制肯定の理論に変化してしまった。日本人論のブームの裏側にはこの国に住む人のアイデンティティの不安感が反映している。(というわけで、1990年以降の不安の時代では、この国が特殊であるという言説はこの国がダメな理由を根拠付けるものになった。「甘えの構造」は出番なし)。
「編集後記」の研究―黒子たちの60年代 ・・・ 60年代は編集後記が面白い時代だった。「中央公論」「朝日ジャーナル」「本の雑誌」でそれを検証。ここには編集者と読者の熱い交流があったというわけで、それは80年代になって失われたという。自分であれば1990年代のプロレス、格闘技雑誌に復活した、とみる。ジャンルが衰えるか、雑誌がメジャーになったところでそれは失われた。まだwebやネットは実現していないので、エッセイで触れられていない。
アメリカの子どもたち―対抗文化のひとつの起源 ・・・ イッピー、ヒッピーという新しいアメリカの子供たちは「親に愛されたい」という希求をもっている、という言がある。これがすべてとはいいがたいが、捨てられない真実をついているだろう。親もこどもや家族をどうしていいのか、どうしたいのかわからない自信喪失を感じているのだ。
詩は、街中にあり―美しき5月のパリ ・・・ 「五月革命」の落書きの重要性について。急増する学生とそれに対応できない高等教育体制について。少数のエリート養成で充分な官僚と多数の知的労働者を必要とする資本について。国家のイデオロギー装置としての学校について。学歴=人生の成功と考える親とモラトリアムを楽しむ子供について。
造反には道理がある―「理念」の崩壊について ・・・ 80年代にはいって紹介された文化大革命の実像を簡略に紹介。このころはこれだけの情報でも驚愕したものだった、と当時の不勉強な若造が思い出話をする。それだけに1989年の天安門事件は衝撃的だった。
 「土居健郎氏との論争について―土居氏への反論」「60年代を読む―『肉体の時代』『ウッドストック』」はちくま学芸文庫版にはいっていて、自分のもっている講談社版(1988年)にははいっていない。


 社会学者の論文というよりエッセーなので、気軽に読める。途中で論点が移動して、冒頭のトピックが忘れられているものがあっても気にしない、気にしない。
 再読したら、ここに書かれた事項のことより書かれなかったことが気になった。たとえば、アポロ計画原子力発電、心臓移植。こういう科学技術のインパクトは50年代以前にはなかった。あるいは、プラハの春パレスチナ戦争、印パ紛争、キューバ危機。こういう社会主義第三世界の変化は? 水俣四日市の公害反対闘争や成田の空港建設反対運動は? もしくはモハメッド・アリ、アベベチャフラフスカというスポーツ選手は? まあそういう疑問を持つこととそれに対する答えを見出すこと(暫定的なもので充分)が読者に求められていることなのだろう。