odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「ファウスト博士 中」(岩波文庫)-2サマリー

2023/04/15 トーマス・マン「ファウスト博士 中」(岩波文庫)-1 エリート主義のドイツ精神は資本主義と民主主義で消えてしまう 1947年の続き

 

第21章 1944年の戦況。ロシアが攻勢に立ち、イタリアの独裁者が失脚する。ドイツでは「国際的(インターナショナル)」は悪口であったとの由(なるほどWW1以降そうなるだろう)。
アドリアン20代前半の作品。「海の燐光」「歯根の治療」(この2曲はエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団によって初演)「13のブレンターノの歌曲」(フォルクマール・アンドレーエ指揮で1922年に初演)。
アンセルメアンドレーエも実在の指揮者。当時20-30代で、発表時存命。実在の人がフィクションの人とつながる不思議な感覚。)

第22章 1910年。妹の結婚式のあと、アドリアンは自分の方法を説明する。

平均律半音アルファベットの十二の音階から、もっと大きな言葉、十二字の言葉、十二の半音の一定の連結と相互関係、すなわち、楽曲つまり個々の楽章あるいは多楽章作品自体を厳密に導き出す順列を作らなければならないだろう。その作品の各音は、旋律的に和声的に、あらかじめ定められたこの基本順序とどういう関係にあるかをみずから証明するところがなければならぬだろう。どの音も、他のすべての音が現われるまでは反覆を許されないだろう。全体の構成の中でモティーフ的機能を果さない音は登場を許されないだろう。もはや自由な音符は存在しなくなるだろう。これをぼくは厳格作法調と呼びたい」

語り手はこれは魔法陣(部屋に飾ってあったのを思い出すこと)という。アドリアンは音楽ではなく秩序を聞くのであり、法則の強制に縛られているから自由なのだという。
アドリアンの方法はシェーンベルクの12音技法に極めて近しい。)

第23章 歌劇「恋の骨折り損」作曲のために、語り手とアドリアンは打ち合わせを続ける。アドリアンミュンヘンに引っ越し、ある下宿に移る。そこでは芸術家や音楽家が集まりサロンがあり、アドリアンも参加した。
(ひとりのアドリアン評「静かな、無口で重苦しい気分の人」。こういうサロンは20世紀初頭まであり、WW1でなくなったのだろう。プルースト失われた時を求めて」)

第24章 語り手は結婚。1912年の夏休みに、アドリアンのいるイタリアの田舎パレストリーナまで夫婦で避暑にいく。アドリアンは「恋の骨折り損」の一部をピアノで演奏。語り手は、アドリアンと家庭教師の長い共同生活に嫉妬を感じる。

第25章 アドリアンの手記を語り手と一緒に読む。この時期に書かれたらしい。ある寒い夜、アドリアンのもとに彼(しゃべるばかりで存在しない御仁)がやってくる(すぐにドスト氏「カラマーゾフの兄弟」でイワンを訪れた悪魔を思い出すこと)。彼はアドリアンに取引を持ち掛ける。すなわち、天才化された時を24年間与えよう、その間、君には霊感と自己享楽、飛翔と照明(と訳しているが明晰のほうがいいんじゃね)がある。その代わり、君は愛を断念しなければならない。なんとなれば、彼はアドリアンのうぬぼれと驕慢をみて、エスメラルダを訪問し、スピロヘータ・パリダに罹患させる策略を実行していたからだ。というのも、アドリアンはすぐれた作曲家であるかもしれないが、天才ではないし、芸術もゲーテベートーヴェンのころと比べるとあまりに変容したから。

「芸術家は犯罪者、狂人の兄弟だ。作者が犯罪者や気ちがいという存在に通じていないのに、何かおもしろい作品が生れたなんていうことがあるなどと君は思うのか?病的とは、健康とは、なんだ!病的なところなしには、生は生涯のあいだやっていけなかった。」「作曲そのものがあまりに困難に、絶望的に困難になってしまった」

彼が言うには、地獄はダンテの「神曲」のようなものではない、凡庸で甘やかされた日常なのだ。彼のお眼鏡にかなうような者には、アドリアンのような策略を仕掛け天才化された時を与えることはない。近代人の驕慢はいずれ頽落して自壊するからだ。しかしアドリアンのような克己と乗り越えの意思があるものには、「彼」は惜しみなく援助し破滅させるのである。(というわけで、「愛を許されない」というのは、性欲を断念しなければならないことと、神からは愛されることがないという二重の苦痛と苦行なのだ。加えて健康ではない野蛮であることなのだ。)
(19世紀の芸術では綺羅星のように優れた創作者がでた。文芸(詩と小説)・音楽・絵画・彫刻など。彼らの中には、社会生活ができないような奇矯な行動性向をもっていたり、破滅に向かってまっしぐらに進むような夭逝のものがいた。彼らがなぜ優れた創作が可能であったのか、市民社会の常識では説明がつかなかったので、「天才」概念を当てはめることで納得しようとした。ときには彼らの反社会性や奇矯な行動を賛美する市民もいたりした。しかし20世紀には芸術はこのような「天才」を不要にする。芸術内部では創作の方法化・形式化が進み、教育システムができてある程度の水準までの創作が可能になったのだ。また近代の官吏社会では奇矯な人物の居場所は狭くなった。創作物を売買する市場に、あまりに奇矯で反社会的な人物は参入を許されない。それに、創作があまねく行われ、さまざまな創造と破壊が行われた後、芸術をすることが絶望的に困難(というか、何を作っても二番煎じ、どこかですでに作られたものの模倣にみられる。アドリアンがいた後期ロマン派の音楽もそういうデッドエンドにあった場所。一生懸命、哲学や神学で作品を繕ったとしても、そこにあるものは凡庸にほかならない。アドリアンの苦悩はそこにある)
(自我とその影が対立のような融合のような会話をするのは、ニーチェですね。もちろんワーグナーの若書き小説やドスト氏などの影響をみてもよいが。)

第26章 1912年の秋、パレストリーナから帰ったアドリアンミュンヘン近郊の田舎村プファイフェリングにある元修道院の下宿に引っ越す。ここを終の棲家とする。
(語り手は現在が1944年4月であると記す。連合軍の反攻が強まり、ライプツィヒは灰燼に帰した。なるほどアメリカ軍が先にドイツ領土を攻撃したから英米軍に負けたという認識になるわけか。実際はロシア東欧戦線でソ連軍に敗北したのがドイツ軍壊滅の理由。アドリアンは亡くなる10年前に記憶を持たなくなったので、ナチス政権の蛮行とアメリカという生産機械による教養の破壊を見ていない。ドイツの破壊とアドリアンの精神の破壊とどちらが強い歴史であるのか。)
(訳者は「オーケストレーション」を「楽器編成」と訳す。27章ではフランスの古い舞曲「ブーレ」を「ブレ」とする。クラオタには悲しい訳語だ。)

第27章 アドリアンの「恋の骨折り損」は酷評される。「キーツの詩による歌曲」「春の祝い」「シュムポーニア・コスモロギカ(単一楽章の交響曲)」などを作曲。
アドリアンは球形ゴンドラに乗って深海を探検したときのことや最新宇宙論を話す。膨張宇宙論や生命の地球外起源説、宇宙の年齢19億年説など(これらは1920年代以降の出来事なので1912-13年の小説の現在には会わない)。語り手はこれまで知られていなかった自然や時間が科学によって知られたことで信仰の根拠や神の意味などに不安を感じる。
(これはその時代を生きていた人たちの感想・心情なのだろう。科学は聖書や博物学に記載されていない永遠や無限を発見した。人間の存在はとても小さくなり、宇宙的な時空間ではほとんど泡のようなものになる。それが不安と恐怖を生むことになる。)

第28章 ブライザッハーというディレッタントがドイツの「保守」を主張する。すべての文化は一つの堕落過程にある。たとえばパレストリーナらの多声音楽は間違いで野蛮である。進歩は嫌悪すべき言葉。ユダヤ民族の宗教における祈りも呪術的技術である。
(このディレッタント(「民間学者」と訳すのはなんだかなあ)の議論はニーチェハイデガーの混交なのだろうな。反ユダヤ主義、反ヒューマニズム、反技術などがそれ。進歩概念の嫌悪は、アメリカの革新主義プログレッシブと対比してもよいのかもしれない。)
(ドイツではバレエを評価しない、声や歌を評価するという指摘。これは教えられた。18~19世紀のフランスオペラにバレエシーンは不可欠だが、ドイツオペラにはめったにでてこない。)

第29章 1914年。戦争前の謝肉祭。下宿の娘さんにおきた婚約と破棄のことを回想する。上流市民社会の第3か第4世代になると、そのマナーに耐えられず、大衆社会の自由にあこがれるようになる。
(それは上流市民社会の文化や教養の伝統が消えることを意味する。戦争前にすでに市民社会は崩壊し、大衆社会に移行しつつあったのがわかる。)

第30章 1914年8月語り手(31歳)は戦役につく。アドリアンの作品は売れなかったが「秘教的名声」を生みつつあった。「万有の奇跡」にはディアギレフバレエ団のピエール・モントゥーが関心を寄せ、パリで指揮しないかと誘いがあった。戦争がそれをだめにする。
(戦争は新しい高い生活を獲得する目的があり、現状を打開するドイツ精神にぴったりと合っているという。一方で戦争は市民社会の義務の放棄であり、休暇の開始であるとも思われていた。クリスマスには終わる富永考えるのでは、過去のドイツは10年おきくらいに戦争していて、経験と強さを持っていると自認していたからだ。総力戦をまだ世界は知らない。あと、これはドイツの上流市民の考え。労働者階級は別の意識だった。
エリヒ・レマルク「西部戦線異状なし」(新潮文庫)1926年

第31章 戦況。語り手がみたもの。

「堕落と故障、われわれの兵力と資材の消耗、生活の貧困化と欠乏、食糧の不足、窮乏による道義の類廃、窃盗の横行、それらとともに、成金化した愚民無趣味な賛沢三昧」

同じ文化人でもフランス兵士が見たものとは異なる。 アンリ・バルビュス「クラルテ」(岩波文庫)
アドリアンは人形オペラ「事跡」の創作に夢中。彼がみるに、教養階級は死滅したので、芸術は孤独になるか無害になるか。芸術は精神であるから、民衆芸術はありえない。俗物趣味なのだ、という。

第32章 二人の共通の知人の結婚模様。1915年春に結婚し、すぐに子供を授かる仲睦まじい夫婦にみえるが、二人の結婚は打算と見栄のため。
(このありふれた仮面夫婦の物語に付き合うのは容易ではなかったが、同時代にシェーンベルク浄夜」、リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」、ベルク「ヴォツェック」などがあるのを思い出すと、ドイツロマン派の最後のテーマは結婚であったのだと合点がいった。こういう男女の機敏、すれ違いを好んで描いた。かわりにドイツロマン派には政治哲学がなく、社会と政治を語ったのはマルクス主義だった。)

第33章 1918年。アドリアンの体調は悪い。胃酸過多、偏頭痛、光に耐えられない。静養を拒否し、自宅ですごす。前の章の花婿が家庭生活破綻をなげき、アドリアンにバイオリン協奏曲の作曲を依頼する(ディーリアス、プロコフィエフよりいいものができるとおだてて)。
この年、ドイツは敗北し帝政が崩壊。臣民が大衆に変わり、秩序の代わりに混沌が起こる。語り手はロシア革命に反感と恐怖を感じる。
(同時に執筆時の1944年6月の状況。連合軍のノルマンディ上陸作成が成功し、パリが解放されるであろう。東部戦線が全面的に崩壊しつつある。ドイツ的なもの、ドイツの特異性が世界中の嫌われ者になっていると嘆く。)


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2023/04/13 トーマス・マン「ファウスト博士 下」(岩波文庫)-1 18世紀からの教養市民層の終わり 1947年に続く