odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

シェーンベルク/カンディンスキー「出会い」(みすず書房)

 シェーンベルク1874-1951、カンディンスキー1866-1944。彼らの仕事を紹介するときに、それぞれ互いの名前が出ることはまずない。しかし、この本によると、1910-30年代にかけて彼らは文通をして、深い交友があり、ロシア革命で決裂した。その関係と対立(というかシェーンベルクの一方的な拒否)がこの本で紹介された往復書簡で明らかになる。ただ、自分はカンディンスキーはよく知らないので、まとめはシェーンベルク寄りになる。

 最初は1911年1月1日のベルリンで行われた演奏会。ここでシェーンベルクの3つのピアノ曲Op.11と弦楽四重奏曲第2番Op.10が演奏された。グレの歌浄夜などのブラームスワーグナーの影響の濃厚な時期を脱して模索中の作品。後者では無調や十二音音楽につながるモチーフが現れる。音楽愛好家にはこの実験は受け入れられなかったが、その場にいたカンディンスキーは感激した。彼もまた具象的な絵画ではない別の表現を模索していて、志を共にする仲間を得たのだと思ったのだろう。最初の手紙は1月18日。カンディンスキーは熱烈な賛辞といっしょに、準備している雑誌「青い騎士」に寄稿するように依頼する。同年8月か9月に二人は初めて会う。そのあとは互いの仕事で会う機会のないまま。その間、シェーンベルクの文章を載せた雑誌がでたり、「青い騎士」の展覧会でシェーンベルクの絵が展示されたりと蜜月時代が続く。クライマックスは1914年夏、ミュンヘン郊外で二人は別荘を借りて、夏を共にしたとき。
 しかし、同年始まった第1次世界大戦とその後のロシア革命で8年間のブランクがあく。カンディンスキーは戦争勃発と同時にロシアに帰還し、革命後の政府で文化政策にかかわる仕事をした。ロシア革命に幻滅したカンディンスキーは1922年にベルリンに移住。そこでシェーンベルクに連絡を取ろうとするが、一方的に拒絶される。それはカンディンスキー反ユダヤ主義を標榜していると思い込んだためだった。実は、アルマ・マーラーシェーンベルクに吹き込んだことで、彼はアルマのデマを信じ込んでしまったのだ(それを疑わないような反ユダヤ主義がベルリンにあり、1923年においてシェーンベルクヒトラーを警戒していていた)。誤解は1928年に解け、二人は再会する。しかし、1910年代の交友は蘇らず、1933年シェーンベルクはアメリカ(カリフォルニア)に亡命カンディンスキーはパリに移動。1936年に手紙を交わして、交友は終わる。
 この手紙から読み取れるシェーンベルクの人間はそれほど好ましいものではない。友情にかこつけてあつかましく、ずうずうしい/疑り深く気難しい/自分の要求を強く主張し、聞き入れられないときはすねる・怒る/他人への配慮が乏しい/自分のアイデアや意見に固執し、他人の意見を聞き入れない、などなど。一方カンディンスキーシェーンベルクの8歳年上であるが、先輩風を吹かせることなく、シェーンベルクの要望(わがまま)にこたえようと奔走する。とりわけ1914年夏に、別荘を借りるために、カンディンスキー一家は翻弄される。天才肌の人にはありがちなのかもしれないが、シェーンベルクは煩瑣な要求を繰り返す。それに応えるのは何とも大変なこと。自分が社長のかばん持ちをしていろいろ手配した記憶がよみがえって、カンディンスキーにはひどく同情したよ(シェーンベルクは1908年ころからの妻の不倫で翻弄されて、ほとほと疲れ切っていた。妻の不倫相手のリヒャルト・ゲルストルは三角関係を清算したのちに自殺する。そのような精神的危機も影響していたのだろう、とシェーンベルクの立場もわかるけどね)。
  シェーンベルクは調性から無調へ、カンディンスキーは具象から抽象へと、方法を優先させる技法を確立しようとしていたのが共通していた。それに、この時期に二人は舞台に興味を持ち、前者は「幸福な手」、後者は「黄色い響き」という作品の上演を検討していた。そのような仕事の共通点のほかに、神智学やオカルティズムへの傾倒なども共有していたという(シェーンベルクバルザック「セラフィタ」を愛読していた)。
 20世紀前半のベルリン、ウィーン、パリ、ブダペストなどの都市は様々な人が流入・流出して、学芸や文化が非常に盛んになっていた。それはおもに哲学者や文学者の側から書かれることが多いので、芸術家同士の事例は貴重。これだけでは都市や文化は見えてこないので、ほかの本で補完しておくほうがよいだろう。