評論家でオカルト研究者のコリン・ウィルソンが1975年になぜ警察小説を書いたのか、といぶかったが、思い返せば著者は殺人事件情報のコレクターでもあった。自分が読んだのは「現代殺人百科」「殺人ケースブック」の二つだが、ほかにもたくさん出ていた。
警察小説というジャンルはいつできたのかな。マッギヴァーンやヒラリー・ウォーがはしりかしら(「ビッグ・ヒート」「悪徳警官」いずれも創元推理文庫)。人口に膾炙したのはエド・マクベインの87分署シリーズ(調べたら上記二人と87分署は同時期だった)。このころは私立探偵が単独で調査するハードボイルドが優勢だったが、1970年代には警察小説や映画がたくさん作られた。まあ、企業の巨大化と地域コミュニティの縮小などがハードボイルドを困難にしたのと、チームで企画や困難に取り組むプロジェクトマネジメントが普及したのがブームの背景にあるのだと妄想する。
ロンドンの近郊の無人の屋敷の庭で、暴行された少女の絞殺死体がみつかる。未成年の失踪届に該当するものは見つからない。周辺を捜査し、屋敷の中にはいると、暴行現場らしい部屋で男の死体が見つかる。発見の順序とは別に、男が殺され、少女が続いたとみられる。少女と見えたのは女学校の制服を着ていたためであり、実年齢は20代半ば、そして変質者相手の娼婦であったのがわかる。ロンドン警視庁のソールフリート刑事が担当することになり、組織の力を使って聞き込みを開始する。
ごくありふれた事件と思えるが、くせ者コリン・ウィルソンが語ると思わぬ方向に動き出す。すなわち、被害者の男は、サディストであり性的放縦であり、しかも魔術の会に所属していた。彼が出入りするオカルト書店(もヒッピー運動のあと1970年代前半に西側の都市で多数あった)を調べることによって、「栄光の手(Hand of Grory:黒魔術に使うもの)」を買い求めていたり、アレイスター・クロウリーの稀覯本を注文していたり、ナチスとヒトラーのオカルト研究に興味を持ち、魔術教団を作ろうとしていたことなどもわかる。この主題にもっと深入りすると、前作「迷宮の神」(サンリオSF文庫)と同じストーリーになりそう。警察小説のエンターテインメントを書いているという意識は強かったのか、オカルトやナチスの蘊蓄を語ることは少なく、至高体験を描くこともなく、捜査は淡々と進む。
扉にはロンドンの私立警察博物館への謝辞があり、深く勉強したことはうかがえる。細部まで描きこまれた捜査はリアリスティック。ただ、警察の組織に対抗する個人の力はすでに雲泥の差になっているので、フォーサイス「ジャッカルの日」のような追いかけっこのサスペンスは出てこない。そのうえ、最初の被害者から重要容疑者に至るまでに関わる人が少なく、事件の全貌が比較的早いうちにわかってしまうのも難(ロス・マクドナルドでは10カ所以上に聞き込みに行って、小説の3分の2くらいにならないと関係者は出そろわないのに)。加えて、被害者の家族やコミュニティの抱えている問題や社会病理も浮かび上がらない。そつのない捜査であっても、事件に深みがないうえ、蘊蓄語りも不足している。センセーショナルな作とは思うが、それに見合うストーリーにはならなかった。捜査の途中で刑事が襲撃されるとか、へまをしでかすとかの別の物語も必要だった。
(刑事の三人称一視点で語られる。捜査や会話が事件継起に沿って記述され、刑事が思いついた事件の疑問や再検討が挿入される。オカルトやナチスなどの蘊蓄は会話か刑事の主観として語られる。この書き方と文章はどこかで読んだことがあると思ったら、笠井潔だった。小説を書く際のモデルにしたのかもと妄想。そういえば笠井はウィルソン「賢者の石」に決定的な影響を受けたと語っていた。)
イギリスがこの国と異なると思ったのは、刑事は勤務中に酒を飲むこと。のどが渇いたらビールを注文し、聞き込み先でふるまわれればウィスキーやウォッカを飲む。いま(2018年)も可能であるかどうかはしらないが、初出の1975年には勤務中の飲酒が可能だったんだ。そういえば当時のイギリスはサッチャー以前の労働組合の力が強い時期。
<参考> 捜査中に酒をのみまくるミステリ。