odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・マクドナルド「Xに対する逮捕状」(創元推理文庫)

 劇作家シェルダン・ギャレットは自作の劇上演でイギリスに呼ばれた。お茶が好きなので(アメリカ人にしては珍しい)、喫茶店に入る。ふと隣の客の会話を盗み聞きしてしまった。女二人の声で、なにごとか犯罪を計画しているらしい。首謀者は「エヴァンス」という謎の男。気になったシェルダンは客を追って喫茶店をでる。しばらく行ったところで見失い、店に戻る。マスターは客のことを覚えていて、忘れ物の手袋と買い物リストをシェルダンに渡した。

 ふとした会話や人相などに興味を惹かれて、後を追いかけるという発端。たとえばA.M.ウィリアムスン「灰色の女」フィルポッツ「闇からの声」モール「ハマースミスのうじ虫」など。いずれもイギリス人作家の手になるもの。アメリカやこの国では、気になった人を追いかけるというのはめったにない(解説によると乱歩「妖虫」がそうだとのこと)。これは不思議な気質。補足しておくと、シェルダンはかつて姉の子供が誘拐され戻ってきたものの深刻なPTSDに悩まされているので、同じことが起きないかと心配するという個人的な事情を抱えていた。なので、動機にはリアリティがある。
 警察は全く取り合わないのだが、友人のエイヴィスを介して名探偵アントニィ・ゲスリンとつながることができた。この高名な探偵は私立探偵(もどき)を雇う。買い物リストからある女性の存在が浮かび上がる。彼女はベビーシッターや家政婦として金持ちの家に入ってはしばらくして辞めるということを繰り返している。つい最近やめたばかりの雇い主の老婦人が自殺したところから、犯罪性が疑われ、ゲスリンの知り合いである副警視総監に話を持っていくことができた。そしてある女性のエージェントになっているベビーシッター紹介所が組織的なゆすりをしているらしいことまでわかる。
 ここまででだいたい半分。困惑するのは、犯罪を阻止しようと動いているのだが、なにが本筋なのかさっぱりわからないし、シェルダンのきいた会話とリンクしてこないこと。ほとんど五里霧中の中をとりあえず手に入っただけの手掛かりをしっかり追うことしかできない。ゲスリンですら全貌というか事件の構図をつかめない。しかもシェルダンは数回にわたって、暴漢の襲撃を受けて脳震盪を起こすまでになっている。そのためのせいか怒りっぽくなって、彼が癇癪を起すたびに事件はますます混迷を深める。
 1938年作なので、名探偵が警察を指導して起きていない事件を捜査するというおとぎ話が成り立つ。今なら警察小説として、チームが複数の事件を追いかける様になっただろう。そこは21世紀から見るとリアリティに乏しいのだが、ある手がかりが新たな人につながり、そこで新たな手掛かりがみつかってさらに人につながるという流れがスムーズ。それでいて全貌がみつからないのが焦燥になって、ページを繰るごとに焦れてくる。作者は映画の脚本を書いていたというのもあって、ストーリーの流れを停滞させない。この筆力は大したもの。
(上の「闇からの声」「ハマースミスのうじ虫」の感想でもふれたように、まだ行われていない犯罪を私人が捜査し、プライバシーを追及するのは正しいのかと疑う。ここでは犯罪性が認められてから、公的機関に捜査は移譲された。しかし、それ以降も私人が警察の捜査に関与し、犯人逮捕の前に大捕物を演じることになる。そこまでの私的介入は認められないのじゃない。介入してはならないのじゃない。復讐や敵討ちを正当化することになるからねえ。)
 で、追いかけている人物が死体となって現れ、シェルダンばかりかエイヴィスまでも襲撃されて、その先ゲスリンは大掛かりな追いかけっこをしなければならない。その陰でエイヴィスのマンハント(亭主狩り)の物語も進行していた。男の物語に気を取られて、こちらの話はなかなか気づかない。こういう小技もうまいなあ。

 

 フィリップ・マクドナルドのほかの著作。

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