odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

三浦しをん「舟を編む」(光文社文庫) 自宅に帰ってからも仕事か読書しかしない松本先生、荒木、まじめくんを配偶者はよく我慢できるものだなあ。

 21世紀になってめだってきた(当ブログ調べ)「珍しい職業」の小説。「職業小説」であるためには、その仕事に関する詳細が語られていて、仕事そのもののおもしろさ・難しさ・達成感などを示さなければならない。そうでないと仕事そのものへの興味がわかない。加えて、仕事をすることでキャリアアップしていく過程も描きたい。仕事を継続することによって、世俗的な成功を収めることももあると示唆してほしい。その職業への憧れが読者におきて職を求める人が増えることが起きるとなおよい。可能であれば、その仕事が普遍性に対する憧れや到達したいという欲望などを実現すると書いてあるとよりよい。形而上的な「真理」や社会正義に近づく手段であることも仕事に含まれることを言及してほしい。そうしたうえで、個性のない何に向いているのかわからない無垢な若者が仕事でもまれて、人間的に成長して行くことが最も重要なストーリーになる。これらを満たした小説は成功するようだ。
 本書はこれらの要素を全部入れた稀有なもの。これで辞書編纂や言葉の多様性と深さに触れた読者がたくさんいるのではないか。その点で、小川洋子「博士の愛した数式」(新潮文庫)に継ぐくらいの出来。多数の読者の支持を得たのはよくわかる。

 とはいえ手放しの絶賛をしかねるのは、個人的な思い出があるため。主人公・まじめくんは言葉に対して敏感な感受性がある。そのことに熱中するあまり、過度な集中力で食事を忘れたり、多書を購入して多読にふけり、多くの人が見過ごす「瑣事」にこだわりを持ち、コミュニケーションがうまくいかなくて(というか表現が苦手)、しかし他人が自分をどうみているか・どういう感情をもっているかに過剰に反応し、時に奇矯な手足の動かし方をする。こういう行動性向には名前がついていて、それは自分ももっているものだから、前半でまじめくんが辞書編集の手ほどきを受けている時に起きたできごとは自分に起きたことのように思えたのだ。彼の失敗は自分の失敗であるし、まじめくんが受ける嘲笑は俺も受けていたのだろうと共感を強くもちすぎてしまうのだ。しかも俺の周りには、まじめくんを受け入れる常識人の男性社員や上司のような存在はなかったからね。
<参考エントリー>
2021/12/23 田中美知太郎「ソクラテス」(岩波新書) 1957年

 ことに彼がヒロインと初デートにいくところ。香具矢さんの選択で後楽園遊園地にいく。俺もそうだったよ。後楽園遊園地に行ったよ。メリーゴーラウンドやジェットコースターに乗る。そうだったよ。俺もいくつものアトラクションをはしごしたよ。最後に観覧車にのる。あの箱にふたりだけになる。そうだったよ。あの観覧車からは東京ドームの「タマゴ」がよくみえるんだ。その時の陶酔。
 ただ、まじめくんとはちがって俺はそのあとフラれたのだった。なので、この日のことはずっと忘れていたのだが、思いだしてしまったではないか。思いださないようにしていたのに、思いだせて甘い感情がよみがえってきて、しかし彼女から拒絶された時のことを思いだしたりして・・・、陶酔と後悔、想起と反省が一度に押し寄せ困惑して、どうすりゃいいんだ。まじめくんと同じ行動性向を持ちながら、彼のような幸福には縁遠かった。俺がたんに嫉妬しているだけなのはよくわかっている。とはいえこちらの気分の整理がつかないので、本書は決して再読しません。
(まじめくんの恋が成就するのは、いくつか理由が考えられるが、そのひとつが同じ建物の中で寝起きしているところにある。デートの時以外に、彼らが観察しあい、個人的な会話を頻繁に交わせるまずめったにない状況にあるから。この状況を設定したのは、1980年以降のラブコメマンガの影響だとみたい。「めぞん一刻」「翔んだカップル」「タッチ」他多数)
(男の読者からすると、登場する男性は類型的なパターンのキャラにみえるのだが、女性はみな実在するかのような個性と深さと広さをもっている。この人物のとらえ方は見事でした。とはいえ自宅に帰ってからも仕事か読書しかしない松本先生、荒木、まじめくんの配偶者はよく男を我慢できるなあ。ほとんど登場しなかったのは、彼女らの心情を語らせると、主題がぶち壊しになるから?  ここは居心地の悪いところでした。)
 世の中に求人がある仕事は、単純な作業の繰り返しか、単価を下げないと受注できないか、いつ発注がくるかわからない不安定なものか、いずれにしても熱心に取り組むには程遠い仕事ばかりであり、或は大企業に入っても生産者や顧客の顔はみえず上司の機嫌や思い付きに振り回される味気ないものになってしまった。読者の物理現実の仕事がつまらなく、自己実現には程遠く、他人からの評価も得られない。となると、まじめくんのように上司に期待されるが抑圧を受けず、自分の裁量で仕事のやり方を変えることができ、実績からは程遠い長い期間のプロジェクトを任されるような有り方はとても稀有に見えるのだろう。まじめくんは仕事だけでなく、プライベートでも充実しているのも魅力的(ただし上のような問題はある)。
 読者の物理現実の仕事では魅力が失われているので、職業小説のお伽話の需要は高まるのだろうか。あいにく出版社にとって辞典や辞書の制作は負担が大きすぎる時代になってしまった。まじめくんの道を歩むことは出版された2012年以降年を経るごとに困難になっている。

 

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<参考: 他の珍しい職業を描いた小説>
井上尚登ホペイロの憂鬱」(創元推理文庫) 2009年 プロサッカーチームのスパイクメンテなど
大崎梢「平台がおまちかね」(創元推理文庫) 2011年 出版社の営業
2020/12/07 有川浩「明日の子供たち」(幻冬舎文庫) 2014年 児童養護施設職員
2021/04/22 宮下奈都「羊と鋼の森」(文春文庫) 2015年 ピアノ調律師
2017/12/20 又吉直樹「火花」(文春文庫) 2015年 漫才師

 

 珍しい職業ではないが、全社一丸となって大プロジェクトを達成するというお伽話。
2014/07/29 池井戸潤「下町ロケット」(小学館文庫) 2010年