odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

小川洋子「博士の愛した数式」(新潮文庫) 家族に対して過剰な愛情や関係を持つことを禁じられ、しかし良好な人間関係を持たなければならない家政婦は探偵になれる。

 とても平明な小説であるが、ここにはいくつかの物語がある。大状況にあたるのが、数論とそこから見出される数への愛情と思想。これがミステリーの書き手であれば、数学史まで持ち出して、事件への伏線にするような、意図的で恣意的な博学を持ち出すのであろうが、ここには単に数の面白さへの、単純でしかし心を動かす感嘆が描かれている。数は不変な概念であるから、そこから読者は「永遠」や「無限」を感じることになり、それを愛する「博士」と「私」を通じてそれらの大きな、人間のサイズを超えた概念と触れることになる。巨大で不変な概念が博士たちの愛情を通じて描かれているので、小さく個別な読者としてのわれわれも安心を感じることができる。(もうひとつの大状況は1992年という年。バルセロナオリンピックがあり、阪神タイガースが好調で、小学生が「江夏豊」を知っているのがおかしくないという時代。)

 中状況にあたるのは、80分の記憶しか持たない「博士」と家政婦の「私」その息子の「ルート」の物語。事件らしい事件の起こらない状況(なにしろイベントといえば、博士の2回の外出しかないのだから)。ところがこの物語がとても面白いものになるのは、彼らの関係がとても微妙で繊細なところにあるからだ。80分の記憶しか持たない博士は顔を覚えることができないので、毎朝初対面を繰り返すことになり、そのことは日常生活にはありえないことだから、ごく普通の家政婦には耐え難いことになる。しかし「私」はそのことを楽しみに変える装置を持っていて、博士との関係をうまく持つことができる。「私」にそれができた理由はたくさんあるのだろうが、そのひとつは小状況としての「私」の物語がある。「私」が、2世代にわたっての私生児であり、家族とのつながりを欠いた育ちをしていること。「私」がかかえるさまざまな問題―――母との確執、捨てられた夫への愛憎、私生児である息子との関係―――そういうことごとの問題に対し、博士との関係の中で、「私」はなにごとかの解答を見出していく。「博士」を媒介にして(この人は物語を通じて変わらない。まるで数式のような不変性があるかのように)、「私」と「博士」、「私」と「ルート」、「ルート」と「博士」の関係が次第にうまくいくようになっていく。その希薄であるようでいて、友愛に満ちた人間と人間の距離のとり方が非常にうまく描写されている。
 それが成功したのはすなわち、「私」の職業が家政婦であるから。派遣先の家族に対して過剰な愛情や関係を持つことを禁じられ、しかし良好な人間関係を持たなければならない職業であるからだ。普通の職業であれば、このような距離感のあって、しかし親しいという絶妙な関係というのは描けないだろう。間違えれば、愛憎どろどろの修羅が現出してもおかしくない場所が設定されているのだから。そこを敷衍すれば、「家政婦」はハードボイルド小説の「探偵」と同じ役割をもっている。どちらも依頼を受けてある家族にはいっていく。そして、仕事を通じて「家族」のあり方を観察し、秘密をみいだしていく。彼らの介入によって家族はかつてとは別のところに変容していく。そういう形式をハードボイルドの物語はもっているのだ。ハードボイルドの約束として、当初順調に捜査を進める探偵は秘密に深入りしすぎて、物語の3分の2くらいのところで、敵役にこてんぱんにのされてしまう。そこから復活して事件を解決してカタルシスに至る。同じようにこの家政婦も家族に親愛を示すことによって、一度職を解かれてしまう。挫折が生じた。でもこの小説では依頼者の理解によってもう一度職にもどることができ、そこから立ち直ることができて、問題を克服する。
(同じように家政婦が家族の中に入り込んで、家族間の確執や偏執を読み込んでいく小説に筒井康隆の「家族八景」があった。)
 さらにいうと、博士にも過去の物語があり、ルートには未来の物語があるのであって、平坦なひとつの物語を読んでいるようでいて、実は登場人物の分だけの複数の物語を読むことになるのだ。しかも複数の物語は、人生をめぐるものであって、ある物語は別の人の物語で象徴やアレゴリーにもなっていて、その重層したイメージを読み解くのはおもしろく、とても奥深い。多くの人はラストシーンの穏やかさに心打たれるのであろうが(なんだかジョン・アーヴィング「ガープの時代」や「ホテル・ニューハンプシャー」を思い出すような結末)、自分には途中の「博士」-「私」-「ルート」の疑似家族的な関係に興味がいった。この三人は、実生活においてはいずれも不足した家族(だれかを欠いている)なのだが、ある共通性を媒介にして家族のごとく振る舞い、それがとても自然で美しいように見える。現実の家族がどこかに幻滅やら愛憎やらを持つものであるから、こういう美しさというのはなかなか見出せない。多くの読者もまたそうであるのだから、現実にはありえないこの「家族」を理想のように思うのかしら(どこの家族も「不能」という欠落というか問題を抱えたものではあるのだがね。そのことには目をつぶりましょ、いま独身でいる若い女性には、この疑似家族が現実の家族の欠落を補うものとして魅力的に映るのかしら)。
 いい小説を読みました。