odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

笠井潔「天啓の器」(双葉社文庫)-2

2016/03/14 笠井潔「天啓の器」(双葉社文庫)-1 の続き

 このような「探偵小説」の謎解きに同時進行するのが、「ザ・ヒヌマ・マーダー」というテキストの話。読者は物理現実にある中井英夫「虚無への供物」を読んでいて、乱歩賞に前半2章で応募され最終審査に残ったが落選したとか、数年後に後半が書かれて「塔晶夫」名義で出版されたとか、舞台が氷沼家であり、「蒼司」「紅司」「藍司」「紫司郎」「菫三郎」など色の名前を持つ人物が登場し、「久生」「亜利夫」「牟礼田俊夫」「藤木田誠」らが素人探偵になって推理談義をするとか、晩年の中井英夫の生活が荒れていたとか(荒俣宏「知識人99人の死に方」角川文庫)、などを知っている(必要がある)。それによくにたエピソードが「天啓の器」に頻出して、物理現実の延長がここに書かれているように思うことになる。しかし、読み進むにつれてその思い込みが誤りであることもわかる。すなわち、この小説で「ザ・ヒヌマ・マーダー」と呼ばれるテキストはどうやら「虚無への供物」に対応していると確証できるのだが、【ザ・ヒヌマ・マーダー】、<ザ・ヒヌマ・マーダー>、≪ザ・ヒヌマ・マーダー≫とタイトルがきわめてよく似た別の書き手による複数のテキストが出現する。それぞれのザ・ヒヌマ・マーダーはテキストの内容をあきらかにしないし、それを読んだ人も限定される。簡単にまとめると、
「ザ・ヒヌマ・マーダー」: 「天啓の器」のどの章にでも存在し、主要な人物は読んでいる。
【ザ・ヒヌマ・マーダー】: 仲居のテキストにだけ出現し、「トウアキオ」がかいたことになっている。
<ザ・ヒヌマ・マーダー>: 「トウアキオ」のテキストにだけ出現し、「トウアキオ」が書いて、仲居だけが読んでいる。
≪ザ・ヒヌマ・マーダー≫: 天童のテキストにだけ出現し、「トウアキオ」が書いて、だれが読んだかは判然としない。
 それぞれの章やその書き手においてザ・ヒヌマ・マーダーが示すテキストは自明であるようだが、物理現実の読者にとっては指し示すものがよくわからない。この錯綜も人間関係の錯綜にかぶさって、「天啓の器」全体をあいまいにすることにつながっている。そのうえで、あとがきにおいて、登場人物の何人かが読者の物理現実につながる世界において実在する人物であることが表明されるうえに、「公表者の後記」においては天童のテキストで構築されたさまざまな合理的な解決の根拠を失う新たな「事実」が表明される。そうして、手記の内容とその前後にあるあとがきや公表者の後記によって、テキストのリアリティというか合理性が疑われ、テキストを引用するテキストの入れ子状態(というかウロボロス状態)が出現し、確定的なことをいえないまま、ふたたび「不連続線」や「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」に紛れ込んでしまう。
 そのような不合理や矛盾する説明や入れ子状になった構造や小説と作者のレベルの解体や部分を模倣する全体の関係などに読者をはまり込むことによって、大文字の作者は消える、のだそうだ。まあ、そういうものかもしれない。(「天啓の宴」の感想に書いたように、テキストをこのように配列した意図とか主体とかが残るから作者は消えないと思うけど。素人感想ですが。)
 かつてはこの本の「作者の死」に関心を持ったものだが、2015年の再読ではのめりこめなかった。まあ、小説と語り手の錯綜についていく読書の体力が失われつつあることが一つの原因。もうひとつは、宗像の議論や天童と仲居の独白にあるような、小説を書くことの強い意味付けについていけないから。小説を書くことが「豚とは違う人間性を獲得すること」「「天啓を受ける器となって作品を完成すること」であり、それが日常性に頽落している存在から宇宙的とか超越的とかの存在との交感ないし飛翔を目指す「革命」運動であると規定する。だから、過去の作品と同じ作品を要求したり、自分の欲望に沿わない作品を与えられることで作者を呪詛したりする読者を作家は強烈に嫌悪することがある。理不尽な消費者のクレームには拒絶することもだろうと思うが、「読者」一般を呪詛、嫌悪するところがね。そこまでの特権をなぜほかの職業を持てず、小説家だけにあるのか、よくわからないのだ。
 蜂起やゲバルトにおいて存在革命を起こすこと、これは全共闘とか大学紛争の当事者たちのモチベーションで目的。しかし、1960-75年の運動で粉砕され、運動そのものが停滞した1975-2010年であれば、書くことは存在革命を実践する場であったのかもしれない。
 でも、俺は「生と死は宇宙史的に壮大な目的を実現するためのかけがえない契機となる」という誘惑に、ヴァンパイア戦争第8巻のムラキのこのことばに強く影響を受けたものだが。すなわち、

「砂漠の砂、宇宙の塵。僕はそれで満足だ。無意味でいっこうに構わない。(講談社文庫P303)」

 政治参加しようが文章を売ろうが、そのこと自身に強い意味付けをして、人生の目的にする考えが自分にはあわない。必ずしもカントの道徳の考え方に同意するわけではないが、「他者を手段としてのみならず、目的としてとらえよ」は重要な考えだと思う。「たった一人の個」として「自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し判断し、行動」すること(SEALDs・奥田愛基さん)はそのような生き方だし、そこでは自分の生と死に意味付けする誘惑は不要。911と311を経験した21世紀においては。