odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

池井戸潤「下町ロケット」(小学館文庫) 「努力・友情・勝利」で日本人の琴線に触れる国民文学。御都合主義なところもふくめて愛される小説。

 ロケットの開発研究者が試作に失敗し、父の町工場を継ぐことになった。以来7年、売り上げを三倍に伸ばすくらいの手腕を発揮したが、売る当てのない水素エンジン用バルブの開発に巨額な研究費を投資している。そのことに社内の風当たりは強いが、利益の出ている間は波風たたない。しかし、主要取引先から販売契約を取り消され、ライバル企業から特許侵害の訴訟が提訴され、一転、倒産の危機にたつ。奇跡のような出来事で(まあ、特許の見直しをして逆提訴するという方法だが、ここは本書内に書かれていない弁理士事務所の頑張りのおかげだ)、危機を脱する。今度は、宇宙開発プロジェクトを推進する大企業から特許取得の商談がくるが、社長は部品提供にこだわる。彼の意地を貫くわけだが、これには社内の反発が大きい。しかし、大企業の尊大な監査に品質検査に腹を立てると、職人魂に火が付き、残業徹夜休日出勤なんのそのという頑張り(書かれていないが、労働局は大丈夫かな)で見事な製品を作り上げる。最終シーンは、まるで甲子園で優勝した高校生チームのような歓喜だ。

 という具合の、サラリーマンの夢物語。こんな会社で、こんなやりがいのある充実した仕事をしたいなあ、社長ほかの熱血な幹部がいればおれも実力を発揮できるぜ、それにくらべて大企業のエリートサラリーマンたちの見苦しいことと、日ごろの憂さを晴らして、胸を熱くするに違いない。そうあってかどうかはしらないが、何年だかの直木賞を受賞したとのこと。重畳重畳。
 作者はよく知らないが、企業の生態をよく知っている(作者の小説はこれが初めてだった)。取引中止と訴訟で売り上げ減少、その処理の描写で、資金繰りに苦慮するところなど。その際に、主要銀行とのやり取りがあり、そのあとベンチャーキャピタルの融資があり(それも転換社債で引き受けるというのは正確な記載)、あるいは企業買収の話があるとか。監査の様子にしても、経理部が数日かかりで過去三期分の財務諸表を作成し、今期の見込みと、中長期計画をまとめるなぞも。そのうえで監査する連中が最初にみるのが財務諸表のPLなんていうのも。ここらへんの記載は、企業の内部で少なくとも役員会や株主総会を経験したか、そういうブレーンをもっているかの人でないと書けないのではないかな。多くの人は、技術開発に情熱を持つ社長の生き様に目をひかれるだろうが、企業の中にいる人たちは、このようなファイナンスやアカウンティングに関する情報はとてもためになると思うので、そちらもあわせて注目して知識を得てください。

 というのも、自分はこの社長と同じように、会社の発展と危機を経験したので、彼および周辺幹部の苦悩がすごくよくわかるのだ。彼らとは逆に、まず会社の大きな発展があり、ベンチャーキャピタルや主要取引先などの出資を受けて資本金が増大、そのうえ証券会社の誘惑にのって店頭公開の準備をしたことがある。そのときは、小説後半の技術部や経理部と同じように休日なし残業の連続という半年を経験したのだった。ITバブルの崩壊とともに、店頭公開はなかったことになり、しかも主要取引先から取引が停止される。自分らの会社は小説の企業のようなコアコンピタンスをもっていなかったので、分裂し、買収されて、なくなった。その崩壊のさなかには、主要取引先との角付き合わせる商談や手の平を返す銀行や証券会社との交渉があり、傲慢な買収企業とのギャップに苦しんだ。新人社員ばかりの20人の倉庫で受注出荷の管理ファイルをつくり、それを運用して、棚卸差異のない月次決算がでるようにした。そのシステムと人はそっくりそのまま新しい会社に引き継がれ、自分はそのあとに関与できなくなった。まあ、あの時は自分もがんばったよなあと誇りに思える2年だったが、その時の仲間も、部下の社員も、作ったシステムも、会社の名前も失った。だから、この小説はその時の挫折の思い出をよみがえらせるもので、どうにも感情移入のしようがない。歓喜の渦巻くラストシーンに俺は顔を背けて、後悔の涙をぬぐうしかない。
(なので、小説に少し疑問があるのだ。社員たちは会社のヴィジョンが明確であるときには、社長の方針や給料に文句をつけることはない。むしろ役員が秘密会議を頻繁に行い、幹部の雰囲気が悪くなったときに、社員は会社に不満や疑惑をもつようになる。だから、小説の若手社員の造反は違うとおもうよ。会社が危機にある前半で離反がおこり、部品納品に決めたあとは士気はあがり結束するのだ。そう書くとドラマにはならないけどね。)
 似たような挫折の経験を書いたものに板倉雄一郎「社長失格」がある。あまりに感情移入していまうので、まだ全部を読めない(今後もたぶんそう)。あと、シドニーフィンケルシュタイン「名経営者がなぜ失敗するか」(日経BP社)も、モトローラ雪印などの失敗が書かれていて、参考になる。頭の良い経営者もときに判断を誤って、健全な会社を倒産させることがあるのだよ。
 という具合に、この小説に感動している人たちに水をさしちゃって、ごめんなさいね。

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