odd_hatchの読書ノート

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リチャード・マーシェ「黄金虫」(創元推理文庫)-1 イギリスホラーの古典。闇バイトに応じた青年は動物や異生物による人体侵襲に恐怖する。

 リチャード・マーシュの生没年は1867-1915。本作は1897年出版。すでに読んでいたものでは、ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」1897、ウィリアムソン夫人「灰色の女」1899年、コナン・ドイル「バスカヴィル家の犬」1902年が同時期の作。この国は1980年代の邦訳が唯一のようだが、英国では怪奇小説の古典になっているとの由。

第1部 窓の開いていた家 ・・・ 失業者ロバート・ホイルは貧民救済用の収容施設からも断られるほど零泊していた(1874年の大不況のあと、イギリスは定期的な中不況・小不況が起きていた。貧困から逃れるにはアメリカに移民に行くしかないが、渡航の費用すらなかったはず)。空腹のあまり窓の開いていた家に忍び込む。なんともいえぬ不快な気分、身体を這いずり回るおかしな生き物、ベッドの中の老人、鼠のような泣き声。悲鳴が聞こえると老人は若がえり、下院議員ポール・レシンガムに憤怒を募らせる。それのいうことには、おまえは議員の家に忍び込み書斎の机から手紙を盗んでこい、心配するな、おれが安全にしてやる。催眠術で身体が拘束されたロバートはことばに従うしかない。半裸のまま深夜の雨に打たれながら、議員の家に忍び込みどうにか手紙を発見した。でも錠を開けるために撃ったピストルが議員を呼び寄せる。詰問する議員に、一言「黄金虫beetle」と叫ぶと議員は煩悶し、首尾よく逃げおおせた。手紙はマージョリー・リンドンという娘の恋文。狂気する奇怪な男は、ロバート・ホイルにキスをして失神させてしまう。
(19世紀も後半になると、失業対策は国家が行うようになり、貧民救済の仕組みができていた。それでも社会保障システムがこぼれてしまうものがいる。そうすると21世紀の貧困青年のように「闇バイト」に応じてしまう。)
2022/06/17 フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」(山形浩生訳)-1 1845年
2022/06/16 フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」(山形浩生訳)-2 1845年
(同時代にストーカー「吸血鬼ドラキュラ」ドイル「まだらの紐」スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」、ウィリアムソン夫人「灰色の女(=黒岩涙香「幽麗塔」)、黒岩涙香「怪の物」があったことを思うと、動物や異生物による人体侵襲は恐怖なのであった。霊魂が乗っ取られるのではなく、身体が他人の命令で動かされることが恐ろしい。それは自分の意思で行動を選択できない、工場労働者や事務員の恐怖や不満の現れなのだろう。)
(手紙を盗む=プライバシーを暴くという行為は、政治的に重要な問題だった。当時の政治や企業が人治主義でスキャンダルが恐れられていたから。エドガー・A・ポー「盗まれた手紙」、ドイル「ボヘミアの醜聞」、バルドゥイン・グロラー「探偵ダゴベルトの功績と冒険」(創元推理文庫)など。ポール・レシンガムが恐れたのは自分の過去が暴かれ、標的にされたこと。謎は明らかになっていないが、ワトソンのように植民地経験ではないか、と妄想。そこではイギリスの法が届かず、やりたい放題だったのだ。)
(このより100年前の18世紀では、手紙は多数の人の前で朗読するもので、関係者の中で回覧されるものだった。国民国家ができて、産業の資本主義化が進むと、情報は秘匿するものであり、かってに暴いてはならないものになった。)
2015/11/11 池内紀「モーツァルト考」(講談社学術文庫)

第2部 怨霊にとり憑かれた男 ・・・ ポール・レシンガムは急進派の代議士で最近急速に人気が高まっている(のちに40歳前とわかる。その割に口調は老人じみている)。ライバルは保守派の代議士リンドン卿。その娘マージョリーはレシンガムに首ったけであり、父の反対を押し切ってでも結婚したいと思っている。マージョリーの幼馴染シドニー・アサートン(この部の語り手)は妹のようなマージョリーを憎からず思ってできれば結婚したいと思っているが、はかばかしく進展しない。それに富豪の娘ドウラ・グレイリングはシドニーに粉を引っかけてきてくるし、古い友人のパーシー・ウッドヴィルはグレイリングに惚れているが、ドウラは鼻にもひっかけない。という三角、四角の恋愛関係はもつれにもつれているのである。
 ある晩、シドニーがパーティから帰る途中、レシンガムの屋敷から半裸の男が逃げ出すのを目撃する。不審に思うと、シドニーの家にアラブ人が現れ、レシンガムとマージョリーの名を書いた紙片を残す。レシンガムが家に来て(目撃情報を伝えておいた)、紙片をみると色を失う。そこには黄金虫の絵が現れていた。同じようにレシンガムの屋敷に侵入する事件がまた起こると、シドニーの家に来たアラブ人は私の言うとおりにしろと命令するが、シドニーは自作の武器で返り討ちにするという。アラブ人は奴隷になるとひれ伏し、実はレシンガムには一族の宿恨があるのだ、復讐を手伝えと懇願する。拒否したその時、アラブ人は黄金虫に変身し、さらに女の姿になって消えてしまった。
(奇妙なアラブ人が現れて、物語に書かれていないところで暗躍しているのがわかる。「それ」は催眠術を使い、他人を思い通りに動かす能力をもっている。黄金虫が彼の力の源泉であり、かつレシンガムを恐怖に陥れるシンボルであることがわかる。自らイリス神の使いを名乗ることによって、エジプトとのかかわりが見えてくる。思えば、エジプトはイギリスの植民地であった。そこでイギリス人がエジプトの先住民やアラブ人にひどい目を合わせていた。そうするとキャラや作者の恐怖は、エジプトでイギリス人がやっていることをやり返されることなのだ。暴力をふるうものは、その相手に自分の鏡像を見るのである。)
(植民地からの復讐は、コリンズ「月長石」でもドイルの探偵小説でもみられる。この小説はロンドンの狭い一角で、おもに上流階級の間で起こるのだが、イギリスの帝国主義と植民地経営が反映しているのだね。)
シドニー・アサートン君は発明家。自宅の一室にこもって新兵器の開発に余念がない。シドニーくんが開発した兵器はアラブ人の心胆を寒からしめたが、のちに実際の役に立つのかもしれない。それくらいの伏線を貼る小説技術はすでにあったはずだ。それはさておき、怪奇小説はオカルトなどの古代からの怪異が登場するが、実は科学技術と資本主義が勝利する物語でもある。ストーカー「吸血鬼ドラキュラ」1898年同様に、本書も技術開発が怪異の力を圧倒するのだ。)

 

リチャード・マーシェ「黄金虫」(創元推理文庫

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2024/01/15 リチャード・マーシュ「黄金虫」(創元推理文庫)-2 帝国主義の宗主国は植民地からの報復を恐れる 1897年に続く