odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高橋和巳「我が心は石にあらず」(新潮文庫) 地方エリートはホモソーシャル社会の競争で勝ち続けようとして威張り、脱落すると女性に依存する。

 前作「悲の器」で法科系エリートを虚仮にした作家、今度は組合活動家を虚仮にする。という方向で読んだ。


 特攻隊になったが一命を永らえた学生は機械工学の技術を得て、地元の機械製造会社の研究員となっている。欧米の高額な特許料を払うのも片腹痛いということで精密機器の開発に取り組んでいるが、最近はようとして成果が出ない。同学年だった会社社長からは労務管理の専門家として、役員にならないかと打診を受けている。でも男が頑としているのは、3000人の組合の委員長として、昨今の不況に対処しなければならないからである。彼は穏健派としてその地方都市の組合をゆるく結合するアソシエーションを模索していて、形になりつつある。とはいえ、各地の企業に組合支援をするために休日はつぶれ、連日の会議は家に落ち着くひまもない。それに見合い結婚をした妻はどうにも彼に無関心で、なぜか同居している独身の妹が家のさまざまな采配を振るうのもよろしくないが、いいだせない。労働でも生活でもうまくいかず、活動にもっとも重きをおくものの、党派や分派がごね折衝や交渉に著しく時間を取られる。まあ、自分で構想して計画し実現までのプロセスを楽しみ結果を評価するという活動の楽しみを全く感じられないのだ。
 会社にも組合にも家庭にも居場所がないとすると、戦中派の男(歌う歌は軍歌のみという野暮)が求めるのは、女の肉体。その都市で優秀な学生に与えられる奨学生に戦後、初めて選ばれた女性が同じ組合にいて一緒に活動するうちに、男は魅かれ、連れ合い宿に入って一夜を共にする。一度限りと思っていた関係は、年下の女性が熱を上げ、別れることができなくなり、ぐずぐずと腐れ縁が続く。それはのちの大規模なストライキにおいて、〈敵〉が利用することになるだろう。
 という具合に、さまざまなことに手を出してはなにひとつ成し遂げることができない。その言い訳に彼は観念を持ち出す。組合活動は~~、組織論は~~、知識人は~~、奨学金は~~、庶民は~~というような数々。大雑把にすると、彼が問題にしている数々を庶民や大衆は理解することが薄く、地縁血縁の共同体にがんじがらみになっていて/みずからそうなって、革新や変革の意思をもたない。そのうえ生理や感情に振り回されて、勝手な行動をとるのだ。昭和30年代の知識人にありがちな、大衆や生活の嫌悪と彼らへの依存がともにあるのだ。
 というのは、この男は戦前の臣民教育を受けて、男性優位社会のエリートとして自己を形成してきたから。彼の行動原理は女性嫌悪と女体依存にあって、ホモソーシャル社会の勝者であり続けようとすること。そこに不機嫌の理由があり、やりたくないことをどんどん引き受けるワーカホリックな行動をとる。しかしこの競争に勝てないことがわかるとあっさり脱落する。そして威張りながら女性に依存し続ける。そういう臣民の下降が書かれている。
 作家にはホモソーシャル社会で勝者であり続ける欲望を批判する意図は(たぶん)ない。でも21世紀にはこの視点以外には読むところはないなあ。

 昭和30年代までは、人は生まれたところで就業し、子どものころからの付き合いを継続するものだった。関係が悪化しても付き合いがなくなるわけではない。仲良くなると労使関係を抜きにした付き合いになる。小さな町では誰もが互いを知っているので、人知れず待合にしけこんだこともいずれ発覚しスキャンダルになる(そのとき男性は罰せられず、女性が追放される)。
 小説の主人公とその取り巻きの行動はこういう共同体の中で角突き合いを避けるためのもの。21世紀から見ると何とも不自由。同時代に集団就職が起きて、成年になると地元を離れて、縁のないところに居を構えるのが常態になったから、小説のような組合や工場の人間関係の煩わしさは消えていく。
 それもこの男のありかたが滑稽で愚かに見える理由。
河盛好蔵「人とつき合う法」(新潮文庫) 1958年

 

高橋和巳「我が心は石にあらず」

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