odd_hatchの読書ノート

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笠井潔「天啓の宴」(双葉文庫)-2

2016/03/10 笠井潔「天啓の宴」(双葉文庫)-1の続き。 

こういう惑わしというのは、作者名のあいまいさにくわえてもうひとつ。とりあえず第2の影山真沙彦版「天啓の宴」は、奇数章と偶数章の語り手がそれぞれ別にいるのだが、それぞれが自分の作品ないし小説を書いている意図を説明している。すなわち奇数章の影山真沙彦は出所してかならず訪れるはずの野々村辰哉に見せるために「天啓の宴」を書くとする。もともと辰哉経由の沢木ノートである「天啓の宴」を廃棄するよう依頼されていたのを裏切って発表した(しかし廃棄した)のを説明するのだ。偶数章の天童直己は書けない第2作を「天啓の宴」を借りることで達成しようとする。自分を三人称にする章を額縁にして、入手した「天啓の宴」を額縁に当てはめる絵にする。そのような入れ子構造を持ち込むことが「作者の死」を実現する方法なのだという。それぞれの思惑が正しいようにみえるのは、奇数章と偶数章の中身がそれぞれの小説を書く意図とぴったりはまっているように見えるからだ。
 ところが額縁にあたる天童のドキュメンタリーは10章で打ち切られ、12章以降はそれを引き継いだらしい野々村辰哉のドキュメンタリーに説明なく変更される。そうなると今度は、ドキュメンタリーである偶数章は奇数章の作者によって恣意的に書かれたフィクションであるのかもしれない。
 ここでは、当の作品を書く意図の説明が矛盾になり、混乱させるようになっている。天童の設定した額縁と絵の関係が、天童の失踪のあとに反転する。20の章で第三者である三笠の説明では、額縁と絵の関係のもう一つ上のレベルで設定している別の意図があるとされる。のであるが、影山と天童のそれぞれと個人的関係をもつ三笠の説明も正しさを保証されない。彼の考える作品を書く意図のレベルも、三笠の推測にしかすぎず、それも作品内の情報だけでしか成り立たない。まあ、こんな具合に、作品を書く意図や額縁と絵の構造などが反転を繰り返し、入れ替わりすり変わり、地と図を決定できないようにしてしまう。そのような状態において、「作者」がどこかに消えてしまう、まあそんな仕掛け。
 過去の作品を思い返せば、探偵小説ではながらく「誰が」「どうやって」「どうして」を問題にしてきた。そこに、「なぜ書くのか」という問題が割り込んでくる。まあ、クリスティ「アクロイド殺し」で有名になったやつだ(細かいことを言えば谷崎潤一郎「私」、ドゥーゼ「スミルノ博士の日記」のような先行作があるけど)。この国でも都筑道夫「誘拐作戦」、竹本健治匣の中の失楽」がそれにあたる。前者は同じ事件を二人が三人称で記述していて「誰が書いたか」をあてさせる趣向。後者は、作中人物が関係者を実名で登場させる小説を書いていることになっていて、章が変わるごとにどちらがリアルで、どちらが小説なのか、わからないようにしている。そのあとの「ウロボロス偽書」だと3つの相が地と図を入れ替えて幻惑させることをしている。この「天啓の宴」もそうした小説のひとつ。地と図、額縁と絵の関係はぐちゃぐちゃになって、決定不能になる。それを可能にしたのは、不誠実な語り手が情報を恣意的に隠匿したり、ウソをまぜたりしているため。自分のみたてだと、「作者の死」は形而上学とか不可知論の世界に逃げたのではなくて、不誠実な語り手のあいまいな記述の中にもぐりこんでいるのではないか、そんな感じ。なので、「作者の死」云々は、文学や評論の大問題というより、作者の技術の出来栄えでみたほうがいいのではないか、と。こちらが匿名の、できるだけ誠実ではありたいが、知能と観察力におとる読者であれば、ワトソンやヘイスティングズみたいにぼけっと探偵や天才の啓示に触れたいわけだから。
(たとえば、奇数章の物語と偶数章の物語が並んで書かれていると、読者としてはそこに関連があると思い込む。ひとまとまりのテキストが並んでいることに、物語の語り手の思惑とは別の意図で配列されていると信じるのだ。古くはホフマンの「牡猫ムルの人生観」か。楽長クライスラーと雄猫ムルの話が相互に並ぶのだから、読者としては関連が「ある」と思うわけ。そこは作者と読者の間にあるぶち破るのが困難な暗黙の了解ではないかな。そうすると、テキストを書く意図や地と図を錯綜して「作者の死」を達成しようとしても、また別のレベルで「作者」が現れるような気がする。まあ、古い時代の口承文学とか集団制作の小説には通用しないけど。無駄口をたたいてみました)
 さて、ここには、かつて発表された「黄昏の館」の宗像冬樹や「梟の巨なる黄昏」の神代豊比古が登場する。いずれも失われた小説を探索する物語であり、それを読んだ人を狂わせる物語。天童の書物探索はそのまま「黄昏の館」の探索行。奇数章の山荘に引きこもる男の物語は「熾天使の夏」のテロリストに重なり、出獄した野々村辰哉の捜査は「復讐の白き荒野」の復讐譚。首を切断された死体は「バイバイ、エンジェル」の最初の被害者に起きた事件に類似。そんな具合に、作者(どの?)の過去の物語のアマルガム。そのうえ、影山や天童や冴美の書きたい「天啓の宴」は「ドストエフスキー流の観念小説」であるということで、なるほど宗像冬樹や「梟の巨なる黄昏」の人物が書きたかったものだが、それは実在する。すなわち「エディプスの市」に収録された「ゴーギャンの絵」「修道僧のいる柱廊」「雑踏のなかの物神」。この事件らしい事件のない観念小説は未完に終わった(2015年のいまのところ)。そうすると、「黄昏」「梟」「天啓」と連なる小説群は、そのままこれらの未完の小説を完成したいが書き続けられない作者(どの?)の欲望に重なる。なるほど、この小説群がある意味作者(どの?)のフィクショナルな自伝と読むことができるわけだ。むしろ「作者の死」よりも隠したかったのは、作者(どの?)の書かれなかった小説なのではないかな。