「ラナルド・ガスリーはものすごく変わっていたが、どれほど変わっていたかは、キンケイグ村の住人にもよく分かっていなかった……狂気に近いさもしさの持ち主、エルカニー城主ガスリーが胸壁から墜死した事件の顛末を荒涼とした冬のスコットランドを背景に描くマイクル・イネスの名作。江戸川乱歩は「非常に読みごたえのある重厚な作品」として1935年以後の世界ミステリのベスト5に挙げた。 (裏表紙より)」
スコットランドの寒村キンケイグに14-5世紀から続く地方領主の城がある。当主ラナウドは偏屈な独身老人。城に人を入れず、自身もほぼひきこもり、夜中に詩をぶつぶつつぶやくという奇怪さ。城にいるのは、姪のクリスティンに、メイドのアイザに、世話人のハードキャッスル夫婦に、白痴の青年タマスだけ。さてその年のクリスマスは恐ろしいものになりそうだった。メイドはラナウドの狂気の振る舞いに恐れをなして逃げ出し、クリスティンに求婚する村の青年リンゼイ(彼はガスリー家と敵対し、今は零落した家の末裔)を追い返す。さてクリスマス・イブの夜。大量の雪が積もり、城は孤絶状態。しかし、アメリカに移住しているガスリー家の分家のお嬢さんシビルが城を偵察にきていたり、ロンドンの青年ギルビーがドライブ中自動車事故を起こすなどして、城に一晩の宿泊を願い出た。扉を開けた世話人は「医者(ドクター)か?」と奇妙な問いをする。シビル嬢とギルビー青年が城にはいったとき、リンゼイが憤怒の表情で城を後にする。妙に陰気な晩餐ののち、深夜、ラナウドが城の胸壁から墜死した。その部屋のベランダにはシビルがいて、墜落の様子を目撃していた。その晩、キンケイグ村ではラナウドの幽霊が何度も目撃される。ギルビーは城に住むネズミの足に奇妙な書きつけがついているのを発見。彼の弁護のために訪れたウェダーバーン弁護士とともに真相を目指して調査を開始する。
さて、このような事件であるが、面白いのは、全体7つの章が別々の人物に手記で構成されているということ。「イーワン・ベルの記述」、「ノエル・ギルビーの手紙記録」、「アルジョー・ウェダーバーンの調査」、「ジョン・アプルビイ」、「医師の遺言」、「ジョン・アプルビイ」、「イーワン・ベルによる結末」という次第。解説にあるようにコリンズ「月長石」の手法を継承しているのだが、作中にもあるようにサミュエルソン「パメラ」ほかの18世紀イギリスの書簡小説を継承しているのも確か。このように事件の全貌を把握しているものは存在せず、それぞれの視点で得た情報と物証、そこからの解釈が同価値で並べられ、どれが正しいかは作中ではあきらかではない。要するに神のごとき事態を鳥瞰し、分析構成する視点はないということ。たとえばアメリカ在住のお嬢さんシビラと村の靴直しベラではラナウドに関する情報や人物像は異なるわけで、そこの差異から読者はどのように読み取るかが問題になる。最後の章で真相が解明されるのではあるが、なるほど他の読者がいうように別の解釈、別人による偽装があるのではないかと解釈することも可能。そのあたりのもやもや感というか、重層的な未決定というのは、複数人の手記からなるという形式からだろう。とにかく、探偵=神の視点が不在だから。
乱歩が言うようにとくにすぐれたトリックがあるわけでもなく、意外な犯人でもないのではある(設定はイギリスの高名な作家の探偵小説に似ている)が、これがイギリス探偵小説黄金時代の最重要作の一つといえるのは、(1)複雑なプロットであり、(2)事件にかかわる人物の心理描写が的確であり(真相を知ったあとに再読すると、「狂気」「奇妙な振る舞い」が意味を持っていることを知るだろう)、(3)力量ある作家の重厚で的確な文体で描かれていることであり、(4)ハイブロウなユーモア、であるだろう。後半ふたつはあまり賞揚されることがないので、強調してほめたいと思う。ロンドンのイングランド語にスコットランドの高地方言にと各種の文体を使い分け(この国だと、津軽方言と京都弁と博多弁をそれぞれ土地っ子のようにかき分けるようなものか)、粘っこい高尚な文章をつないでいく。人物像に応じて文体と構成を使い分け、一人の手になったものと思わせない。そこにはイギリス文学の伝統と豆知識が加えられる。タイトルになった詩の作者であるウィリアム・ダンバーなる詩人の作が何度も作中人物に引用される(この国だと、作中人物が近松門左衛門や上田秋成を引用するようなものか)。ユーモアは人物描写について。いかにも弁護士然としたウェダーバーンの風采に口調、若者たちと老人たちの対比と、キャラが立っていて、なによりも村の靴直しベラがこの中でもっとも学識が高いという点(村の物知りというと牧師と教師で次は靴直しだろう、とおだてられる)。とはいえ、あまりにハイブロウなので、この国では読者を選びそうだ。
もうひとつ。「医師の遺言」は19世紀末にオーストラリアに冒険旅行にいった青年の手記。途中で記憶を喪失し、砂漠で九死に一生を得、医学研究者として一生を終えようとした人の半生記になる。これが事件の遠因をなす重要手がかりだが、通常はこの種の因縁譚は真犯人摘発後に書かれるのであった(ガボリオ「ルコック探偵」、ドイル「緋色の研究」ほか)。ここでは途中にさしはさまれ、現在の事件を別角度から照らす明かりになる。これはゴシックロマンスや怪奇物語の書き方ではないわけで、文体や舞台の雰囲気はなるほどその種の古い物語であるのだが、作者の意気はそこにはない。一見古めかしいと見せかけて、「現代」探偵小説を作っているのであった。
最後に、イギリスの作家はクリスマス・ストーリーを書くのが必須なのだな、ということを指摘しておく。普通は、イブの奇怪な出来事が翌朝には解決し晴れ間の陽光とともにみんなが仲良くなるというのが定番だが、すこしばかりここでは苦々しいし、割り切れない思いが残る。それもまたちょっとした変化球か。
1938年、開戦前夜の不安な時代の作品。駆け落ちしたリンゼイとクリスティンがアメリカを目指すのも、そのあたりが理由(なはず)。