odd_hatchの読書ノート

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秋山さと子「メタ・セクシュアリティ」(朝日出版社) フェミニズム前の女性視点でみた精神分析の研究史

 著者は1923年生まれのユング派の学者。1960年代にチューリッヒユング研究所に留学。筆が立つので、いろいろな啓蒙書を書いた。講談社現代新書のを読んだことがある。ラジオ番組を持っていて、長年のリスナーもいるかな。

 半分は、女性視点でみた精神分析研究史ユング派の精神分析の実態について。どこで読んだか忘れたけど、19世紀の性の抑圧がヒステリー症状を生んだとか、なので精神分析の患者は女性が多く、一方分析医は男性。患者が自分の無意識を解放すると医師のほうがそれに影響されて、ときに恋愛感情が発生し、患者の家族と医師の家族を巻き込んだどろどろの関係ができるそうな。著者がいうにはユング派の場合、患者と医師の関係を緩やかにしていたからその種の問題は起きやすかったらしい(フロイトは治療室以外での医師と患者の接触を禁じていたからまだましだったとか)。それに、患者自身が医師の研究会や講義を聴いていたので、だれが講師でだれが生徒で、だれが医師でだれが患者かわからないようなことにもなっていたそうな。
 自分はまともな精神分析の本はフロイトの「精神分析入門」しか読んでいないのだが、どうも「無意識」というのは「ある」のではなくあとから発見される「あった」で、現在・今を生きているとき無意識が意識を規定しているというようには思えないんだ。振り返った時に「ああ、あのときはこういう別の理由があったのだ」と理解するのであって、では現在・今や未来の判断にそこで発見した「無意識」を意識できるかというとそれは無理だよなあ、そのときには無意識の方向が別になっているからなあ、というようないい加減な考えなので、ここらへんの議論には参加しない。まあ、自分の過去を語るのも好きではないので、そんなことで一時間を費やすより、3分の近況報告した後、薬をだしてくれるほうがありがたい。
 さて、あとの半分はヘンリー・ミラーとジェーンとアナイス・ニンの話。以前読んだアナイス・ニンの「日記」だと彼女視点でヘンリーとジェーンを見ることになるので、その補完として面白い情報だった。すなわち、アナイスによるとジェーンはだらしない女性であるが、外から見ると彼女は自分を進化・進歩するという考えはなくて、現在を正直に生きるという人。なので、一貫したアイデンティティ、主体というのはない。なので、社会の倫理や規範を理解して、それに従うことができない。それは苛立たしく思えるが、一方でいうと「生」をより生き生きと楽しんでいるのではないかという見方も可能。アナイスは抜群の美貌の持ち主(この本に収録された写真もとても魅力的)で、自己克己心の強い人。しかもファーザーコンプレックス(子供の時に家を捨てた父に愛憎を感じている)の持ち主。まあそういう彼女が自己克己を目的に、精神分析医にぶつかったら(オットー・ランク。アナイスの日記にも登場)、医師は彼女にめろめろになり、それで彼女は冷めてしまったとか・・・。1930-40年代にこういう恋愛があったことが楽しい。性の解放とか恋愛の自由というのが、行為になったのは1960年代からだものな。
 で、あとはユング派の主張のまま、人の意識(でいいのかな?)には男性性と女性性があって、過去はどちらか一方であることを求められてきたけど、これからは両方を意識するようになっていいのじゃない。その傾向はアニメ「風の谷のナウシカ」の主人公に見られるねえ(そこからの発展で「オデュッセイア」をまとめた人は女性詩人ではないかという説を紹介)。幼児から子供のころは(第二次性徴の前か)、両性具有であったので、それはモデルというかルールになるのでは。とはいえ、大人になれないで子供のままでいる人が若い人に増えてきたねえ、という述懐。
 さて30年たって、著者の考えは実現したかを検証してみると・・・ あたしにゃわからんわ。筋肉を使う「男の職場」に女性が就業することもあるし、その逆の事例もあるだろうし。それは人の意識の変化で説明するより、募集者と求職者のミスマッチから、就ける職場に人々が流れて行ったとも思える。「婚活」で未婚女性がマンハント(亭主狩り)するのがニュースになるけど、これも意識の変化よりはこの国の企業の職場や地域社会や家族の環境で理由をつけられるだろうし。人の意識を変えよう、人の意識が変わって社会が変わる、という説明にはどうも眉に唾をつけたほうがいいなあ、と思っているのでこんなあいまいな物言いになってしまう。