「今から百年前,アジアで最初の国会開設要求の国民運動が日本全国からわきおこった.一八八一年は,この自由民権運動の最高潮の時であり,民衆憲法草案が続々起草され,自由党が結成され,専制政府は崩壊の危機にまで追いつめられた.各地で進められている研究活動の成果をふまえ,自由民権の全体像を構築し,現代的課題を明らかにする.」
堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」は1940年前後の青春群像を描いているのだが、その中に主人公の祖母が出てくる。彼女は、明治初年ころの富山県の生まれで、その生涯において自由民権運動と米騒動を目撃・体験しているのだった。だから彼女にかかると、昭和初期の共産主義運動も先人の苦労に比べて、生ぬるいか稚拙なものであったということになる。このような記憶は、戦後の労働運動などにおいていったん失われたのかもしれない。「自由民権」運動の掘り起こし作業は1970年以降、左翼前衛の運動の退潮期から活発になるのだった。感動的なのは、現在まで無名になった多くの青年の運動だろう。一部は多くの弾圧事件で逮捕、投獄され、北海道などの刑務所に送られ強制労働によって死亡した。あるいは、病に倒れた。あるいは亡命し、かの地(たとえばアメリカ)で新聞を発行したりした(この辺の事情は1989年の天安門事件の指導者たちに似ている)。彼らの記録が蔵などに残され、百年を経て、再発見されている。いくつかの憲法私案には明確な人権思想が反映され、日本帝国憲法をはるかに凌駕する条項を書いている。
こうやって明治から昭和20年までの帝国主義・侵略国家における国内の暴力的な治安維持システムに抵抗した人々、ということで「自由民権」運動の先進性と思想性に高い評価が与えられた時期があった。一方で、最近になると「自由民権」運動は思想・政治運動ではなく、明治初期の薩長政府に選抜されなかったもののルサンチマンに基づく運動で、参加者の多くの意思は経済改革(というか徴税と徴兵の反対)の運動であったという人もいる(薬師院仁志「民主主義という錯覚」PHP研究所)。一部の人を除いて、「自由」「民権」に対する理解は同時代の西洋と比べて非常に低い(著者の主な批判の矛先は板垣退助、後藤象二郎に向う)。この視点をもつと、自由民権運動が挫折した理由、内部解体した理由(自由党と立憲改進党の対立、自由党の自主解党)、運動の主体が政権にとりたてられかなった士族、地方の素封家、都会のインテリであったなどを明快に説明することができる。自分は相撲の行司役ではないので、どちらが正しいということにはくみしない。自分の知っている政治運動体にはこの種の弱点はいつも現れたものだ。非常な潔癖さとしっかりした政治思想をもつ運動はみたことがない。
明治維新によって成立した弱体な政権が形式上の立憲君主国(=民族国家)を成立させようという政治がおこわなれた。最初は、政権内部での覇権闘争であった。負けたのは2種類で西郷隆盛の一派=武力闘争派と板垣・後藤の一派=政治運動派なんて図式にしておく。西南戦争で武力闘争派が壊滅し、明治20年代の自由民権運動で政治運動派が敗北した。このふたつの敗北によって、民衆による反政府の運動は根こぎになり、ナショナリズムが優勢になって日清・日露の戦争に巻き込まれていった。こんな感じで理解のストーリーをつくることができる。このような明治の運動(政府の側、民衆の側両方)を理解するのに、「自由民権」「天皇の肖像」「徴兵制」は有効だった。